「AIR CONTENTS」とビジネスモデルの関係性について

あけましておめでとうございます。当ブログ運営のけろっぴです。


さて、先日載せた「AIR CONTENTS」という考え方についてですが、その後、AIR CONTENTSーー《”空気”のように消費されているユーザー主導のコンテンツ》という定義では、あまりにもアバウトすぎると感じたので、今回はそれについての解説と、フリーコンテンツの違い方などを考察していきたいと思います。

  • UGCというくくりは乱暴である


UGC”と呼ばれるモノたちは、本来その特質がばらばらであるのにも関わらず、僕たちはインターネット上の“UGCらしきもの”をひとくくりに「ユーザー生成コンテンツ」と呼んでいるがゆえに、様々な不都合が生まれているように思えます。


その最たる例が「wikipedia」と「pixiv」が同じUGCという括りに入れられていることです。何故なら、両者とも《素人がコンテンツを制作している》という点のみが注目され、あたかも全く同じタイプのサービスだと認識されているのは大いに問題があるからです。


確かに、今までコンテンツを制作するのは企業やプロフェッショナルの仕事であって、僕たちの役割は飽くまでも「消費者」でした。ですから、ゼロ年代以降その構図が変わってしまったことは極めて大きな変革であり、声高に強調されうる事柄であることは間違いありません。しかし、ネット関連の議論で度々言及される「次の10年」はもう始まっており、いつまでもゼロ年代web2.0議論は時代遅れだと言わざるを得ません。


さて、話が少しずれましたが、ここで僕たちが主張したいのは、《「wikipedia」と「pixiv」は本質的には別物のコンテンツである》ということです。誤解して貰いたくないのですが、ここでの両者は飽くまで記号的(分かりやすい)な例あり、ここで重要なのは「AIR CONTENTS」の議論の中で、両者の区別があるとないとでは、「AIR CONTENTS」という考え方が「wikipedia」にも適用されてしまい、その意味合いに齟齬が生じてしまうということです。

  • 両者の差異とは何か


ネットコンテンツの議論の中で、「wikipedia」がしばしばweb2.0的なコンテンツの代表として取り上げられてきたのは、その「オープンソース」と呼ばれる性質に注目が集まっていたからです。これはかなり一般的になっている考え方ですから、あまり説明はしませんが、つまり《中心が存在せず、個々人が根のようなもので繋がっていて、個々人が発信者である》という考え方ですね。この考え方は、時代によって呼び方は違えど古くから唱えられてきた考え方です。ゼロ年代にこの考え方に注目が集まったのは、インターネットが存在しなかった時代に於いても当時の社会学者や哲学者の中にそういった考えを抱いていた人たちが存在していたからでしょう。


では、なぜオープンソース型コンテンツが「AIR CONTENTS」に含まれると不都合が生じるのでしょうか。


理由は簡単。厳密に言えば「wikipedia」と「pixiv」はコンテンツにとしての性質が異なるからです。


wikipedia」や「Linux」で制作されているコンテンツは、コンテンツとして「客観的」な性質を持っています。ここで「客観的」とは、全体として進むべき方向や共有されている価値観などが独立して存在している状態を指します。何故そういえるかというと、それは、ユーザーが制作しているコンテンツが基本的には一つであり、その基本理念が《利用者にとって平等に便利なモノを作る》――と僕たちは解釈していますが――であるからです。だからこそ、先ほど述べたその「オープンソース」という特性が有効に働いているのです。


それに対して「ニコニコ動画」や「pixiv」で公開されているコンテンツは、コンテンツとして「主観的」な性質を持っています。ここでいう「主観的」とは、ユーザー間に絶対的な価値観が存在せず、相対的に良い悪いが評価されうる状態を指します。ですから、ここにおいて「オープンソース」という考え方は一般的には適用されません。ユーザーが個々に別々のコンテンツを制作しているので、何が良く何が悪いかということの判断をつけられないからです。


客観的なコンテンツで評価されるべきはユーザーの協力によって制作され出来上がった一つの(大きな)コンテンツそのものなのですが、主観的なコンテンツで評価されるべきは数多くの(小さな)作品とその作者であるのです。


以上の議論をまとめると、両者の最も明白な違いは《明確な制作者がいるかいないか》だといえるでしょう。

  • 2ch」型コンテンツは絶対的モデルではない


インターネット上で“嫌儲”という考え方が根付いてしまったのも、上記の二つの全く性質が異なるコンテンツを“UGC”と一括りにしてしまったからです。とくに“嫌儲”が顕著に見られる「2ch」は、上記のような分類をするとすれば、間違いなく客観的なコンテンツです。これは恐らく反論されると思います。何故なら、「2ch」こそheterogeneity(異種混合)、分かりやすく言えば“カオス”すなわち「主観的」で雑多な物事の象徴だったからです。しかし、「2ch」のコンテンツは具体的にはなんでしょうか。スレッドでしょうか。だとしたらその制作者は誰でしょう。立てた人でしょうか。ならば、「2ch」のコンテンツ制作者はスレッドを立てた人という事になってしまいます。でもそうではありません。「2ch」のコンテンツが何であれ(これはこの議論では重要ではありません)、そこには明確な制作者は存在していないのです。


ですから、そのコンテンツがマネタイズされるとき、儲かるべき人が定まらず、結果として、『お前が儲かって俺が儲からないのは気にくわない』という考え方が生まれます。そういう考え方のもとに、僕たち消費者は《インターネットのコンテンツは全て無料であるべきである》と感じてしまうのです。付け加えるとすれば、《お金がからまないからこそ自由闊達な表現が可能》という考え方の浸透でしょうか。これは先の「AIR CONTENTS」についての記事に於いて触れたのでここでは言及しません。


ですが、やはり《無料である必然性があるコンテンツ》と《正当に評価される必然性があるコンテンツ》は区別されるべきなのです。

  • AIR CONTENTS-2」


以上の議論から、「AIR CONTENTS」は、《“空気”のように消費されているユーザー主導のコンテンツ》ーー特に《明確な制作者が存在し、正当な評価を受ける必然性があるコンテンツ》の事を指します。一番初めに述べたように、「wikipedia」と「pixiv」が同じ意味合いの「AIR CONTENTS」で使われてしまうと、『wikipediaの記事を執筆した人も正当に評価されるべきだ』という主張が為されてしまうのです。


しかし、実のところインフラ(もしくはメディア)のレベルで話をすれば、「2ch」も「ニコニコ動画」も同じジャンルに分類できるのです。そのジャンルこそ、「オープンソース」です。これは先ほどの議論と一見矛盾していますが、どちらも、コンテンツ制作をユーザーになげうっているため、基本的に仕組みは変わらないのです。しかし、コンテンツのレベルで話を進めると違いが生まれる。その違いが――これも先に述べましたが――明確な「制作者」の有無です。制作者がいない「2ch」は包括的に“2chという掲示板サイト”自体がコンテンツと言い張ることが出来ますが、個々の制作者が存在している「ニコニコ動画」は“ニコニコ動画という動画投稿サイト”自体がコンテンツだとは言えません。


ですから、両者はメディアについての議論であれば「オープンソース」という括りに入れて間違いはないのですが、コンテンツについての議論では同じ括りには入り得ないのです。

  • サービス形態の違いは課金形態の違い


ですから、今現在の「AIR CONTENTS」に基づいているサービスが、自社のサービスをそうでない「wikipedia」のように扱ってマネタイズしようと考えていることは効率的ではありません。つまり、「ニコニコ動画」や「pixiv」のようなサイトと、「2ch」や「wikipedia」のようなサイトは、マネタイズの方法も異なるべきなのです。


例えば、後者はサイトそのものがコンテンツで“ありえる”のですから、利用(閲覧)に際してお金を払うというモデルがどちらかというと適しています。実生活でいえば、「ジム」や「テーマパーク」でしょうか。しかし、前者のサービスは、サイトそのものがコンテンツではないので、今のような登録料を徴収するモデルは非効率的だと言わざるを得ません。むしろ、月額制などではなく、基本的な使用料は無料でいいのではないでしょうか。そして、《消費者からクリエイターへの支援の何割かが企業に入る》ようなモデルも全く「あり」だと思います。


今のようなモデルは、例えば、出品が自由の美術館の入り口に”一般用””VIP用”の入り口があって、お金を払えばVIP口から入ることができて、一般用より近くで絵を見ることが出来るが、絵の品質は保証されていない、という奇妙なモデルです。


であれば、入場は無料で、出品も無料、閲覧に関して有利不利は存在しないが品質は保証されない。しかし、その中の自分の気に入った絵の作者にカンパを行え、そのカンパの1%が「美術館」に入る、といった仕組みはどうでしょう。


いかにも“嫌儲”が『俺のカンパはひいきのクリエイターにしているのであって、別にお前らにしてるわけじゃない』と顔をしかめそうな手法ではありますが、いい加減僕たち消費者も、《その場所を企業が無料で提供しているという事自体が優れたコンテンツの大前提――メタコンテンツであり、それこそ信じられないくらいお金がかかっている部分》だということを認識すべきでしょう。


だから、むしろ、これから企業が勝負すべきなのは《どうやって利益を上げるか》や《どうやってコンテンツの質を保証するか》などに先んじて《いかに他に変わりがきかないようなメタコンテンツ(メディア)を提供するか》という点なのだと思います。UGCを専門に扱うサービスなのであれば、コンテンツ生成はもうユーザーに任せてしまって、企業はメタコンテンツの向上を図るべきです。つまりは、サービスの向上です。


本来サービスと言えば、ユーザー目線からの差別化でしたが、UGC分野は、ユーザーでも、「提供者」と「消費者」が存在するわけですから、それら両方に対して魅力的なサービスを提供すべきです。ブログを例に挙げましょう。ブログサービスは基本的に書く人(提供者)目線のサービスとして作られています。例えば、本来面倒なハズのHTML構築を、ボックスに文章を書き、ボタンを押すだけで公開できるといった機能のファシリテーションのことです。


しかし、読者(消費者)に優しく設計されているでしょうか?


ブログは基本的に読者にとってはWEBブラウザで眺めるものであって、重要なのはコンテンツ(文章)だと捉えられがちです。だから、ブログの外観自体はあまり重要視されていません。しかし、すごく小さな事ですが、PCから見た時と、携帯から見た時に見やすさが変わらないような工夫は、消費者目線のサービスでありますし、これ以上なくメタコンテンツです。


具体例を挙げましょう。amebaが開始した「amebaなう」です。


http://japan.cnet.com/interview/story/0,2000055954,20405975,00.htm


詳細は読めば分かりますが、amebaはblog分野でも、芸能人とタイアップすることによって、他のブログサービスとの差別化を図っています。有名芸能人をつぶやかせることによって、(その芸能人がtwitterをやっていなければ、特に)『このサービスを始めないと読めない』という、消費者目線のメタコンテンツをうまく作り出しています。


これからの10年は、コンテンツと並んでメタコンテンツ(必ずしもメディアでない)の構築と向上は企業にとってますます重要になっていくでしょう。メタコンテンツの確立はうまくやれば直接マネタイズに繋がりますし、UGC分野では「AIR CONTENTS-1」のクリエイター達の活動も活発となり、結果的にコンテンツの質の向上が見込め、好循環の生成が期待できます。

  • 終わりに


さて、随分、というか今までで恐らく最長の文章になってしまいましたが、「AIR CONTENTS」という考え方をビジネスモデルと絡めて論じてみました。


ではでは。