2022年/コンテンツの外側から

このブログの最後の記事が書かれてから約10年が経とうとしていますが、今だに10年前の記事を読んでくれている人がいるということに心の底から驚いています。そして、とても感謝しています。

 

当時20歳の大学生だった僕は紆余曲折の20代を経ていま30歳のサラリーマンになりました。ここ2年あまり世の中は狂っていますが、とりあえずは問題なく生活できていると思います。合縁奇縁で、まだ20歳の時に住んでいた町に戻ってきて住んでいます。

 

keroxpというハンドルネームを最初に使い始めたのは、今からちょうど12年前です。

当時僕は他所でけろっぴというハンドルネームを使っていて、twitterアカウントを作るにあたって、keroppiとかkeropというIDが使えなかったことから、しぶしぶkeroxpという文字列をあてました。なので、keroxpの本来の読み方は「けろっぴ」でした。今更ですが、普通はそう読めませんよね。初見でそう読めた人はいません。高確率で「なんて読むんですか?」とか「ケロエクスピー」と率直に読む人もいるくらいです。

 

今現在は「けろっぴ」という名前で活動している場所はないので、keroxpという文字列に正しい読み方はありません。自分でもなんと読むのかは決めていません。読み方が消えて文字記号だけが残るというのはなんとも歴史っぽくて面白い話です。

 

keroxpというアカウントはネット上にいくつか散見されますが、おおむねプログラマーとしての活動が目に付くと思います。僕は大学時代、つまりこのブログを書いていた時期に勉強していたプログラミングで大学と大学院を卒業し、現在もプログラマーをしています。

 

Out of Contentsというブログのタイトルは、実は二代目です。初代のタイトルを覚えている人はおそらくこの世に僕以外に1人くらいしかいないと思います。Out of Contentsというのは和製英語というか、英語としての意味はほとんどなしていません。言いたいところとしては「コンテンツの外側」という意味なのですが、ここでいう「コンテンツ」というのは映画や漫画のようなエンターテイメント作品のことです。「コンテンツ」が和製英語なので、まぁ変な英語になっています。ただ語感がとても良かったのそう名付けたのです。

 

コンテンツの外側というのはコンテンツを取り巻きコンテンツを外側から見るということで、コンテンツの内側、すなわちコンテンツそのものを作ることのできない自分を皮肉った名前でした。

 

当時の自分はクリエイターというものに漠然とした憧れをもっていて、自分も何か作りたい、クリエイターになりたいという焦りにも似た情熱を持っていました。しかしアニメや漫画はたくさん見てきたけど、何か作品を形にしたこともない。なので自分が何を作れるのかも分からず毎日鬱屈と過ごしていた記憶があります。

 

このブログにコンテンツの感想を書き始めたのは、コンテンツの構造やキャラクターの分析といった、クリエイター・クンフーを兼ねたものでした。当時一番仲の良かったコンテンツ好きの友人、というか師匠みたいな人から勧められた作品をみて、彼への私信のような形で書かれたものがここにある文章です。

 

なので不特定多数の人に見られるとは思ってもいませんでした、自分の予想に反して好意的に受け止められていることも、それが10年経った今も読まれているというのは本当に予想していなかった結果です。

 

そんなクリエイター・クンフー(彼がそういったのです)はその後の僕の「コンテンツを見る、理解する力」を大いに育んでくれました。一つのコンテンツをただ見るだけではなく、理解することによって作品を二度楽しむことができるようになりました。

 

大抵の人はコンテンツをみたとき「面白い」か「面白くない」かくらいでしかその作品を語ることができないと思います。もちろん、それが正しいコンテンツの見方であり、楽しみ方です。しかし、そこにもう一歩作品に踏み込んで、色々な考えを巡らせることによって、作品をより「面白い」と感じることができるようになるのです。

 

コンテンツの批評や分析というのは、作品がなぜ面白か、あるいはなぜ面白くないのかということを言語で表す活動です。作品が面白かったならそれでいいじゃないか、というのはもちろんそうなのですが、なぜ面白いかを言葉で説明できると、とても気持ちがよくなるものなのです。

 

いい批評というのはいい作品への理解をより深め、ひいては作品自体のクオリティを底上げすることさえあると思います。なぜなら、作品の価値は見た人の感情で決まるものだからです。作品をみて感動した人の感情を、より高めることができるのなら、それは作品自体の価値をあげているということにもなるのだと思います。

 

一方で批評というのは極めて個人的でアンフェアな行為です。批評と創作、どちらが大変かというのは議論する余地はありません。作る方がはるかに大変です。また、たいていのコンテンツは商業的な商品として作られているので、個人的とは呼べないものでもあります。二人以上のひとが、お金を稼ぐために一生懸命知恵を絞って作られたものを僕たちが見ているわけなので、そもそもフェアな関係ではなく、どこまで行っても売り手とお客さんでしかないわけです。

 

また批評は基本的に個人で行われます。そこに書かれているのはどこまで行っても個人の感想です。個人の意見ですから、完全にフェアなものはありえません。その人の人となりや価値観がとても強く反映されたものになるでしょうし、少なくない勘違いも挟まっていることでしょう。また、そもそも作品を見ただけの消費者には、クリエイターしか知り得ない情報というものが欠落しているので、あくまで作品を見た自分という立場しか表明できません。なので、クリエイターと批評家の間には永遠に埋まらない大きな溝が横たわっています。

 

それでもなお感想を言語化したいと思うのは、作品を理解したいというよりも、自分を理解したいからなのだと思います。作品がなぜ面白いのか?を考えることは、作品にこう感じた自分は何なのか?ということを考えることだと言えます。

 

コンテンツを見るということは、コンテンツを通して自分自身を見つめるということに他なりません。僕はコンテンツを語ることによって、よりコンテンツを理解する力を持つことができましたし、それを人に説明することも得意になったと思います。それが、彼が教えてくれたクリエイター・クンフーの成果です。

 

この10年、僕はコンテンツの外側から内側にどうにか近づこうともがき続けていました。小説を書いたり、絵を描いたり、ゲームを作ったり、音楽を作ったり、3DCGを作ったりしました。しかし、そのほとんどがうまくいきませんでした。そのどれも、その道の一流と呼べるような結果を出すことはできませんでした。創作が失敗するたび、心が折れてどうしようもない気持ちになりました。

 

ただそれでもひとつ言えることは、僕の人生はコンテンツによって支えられてきたということです。作品を見ること、作品を語ること、作品を作ることによって僕の人生は前に進んできました。よく行き詰まる僕の人生を、その度に歩を進ませてくれたのは幾千万の作品たちなのです。それは時に人が作った作品であり、時に自分で作った作品でもあります。それらがなければ、間違いなく僕という人間はなかったでしょう。

 

30歳になった僕は、何かを作るということに対する情熱を失いかけています。何かを創作するということのエネルギーの巨大さに、恐怖を抱いてすらいます。自分の作ったものが、誰からも見向きもされないことを、心の底から怖いと思っています。

 

20歳のとき、酒を酌み交わしながら、アニメについて夜通し語った友達はもういません。僕たちの青春は終わったのです。僕はあの頃よりもずっと広い家の居間で一人、この文章を書いています。皆、それぞれの人生を見つけたのです。

 

なぁ、お前ら。

 

今どうしてる? どこで何してる? こんな狂った世の中でちゃんと息してるか?

俺はギリギリだよ。もう立ってらんねぇよ。つれぇよ。

 

俺はこの10年頑張ったよ。本当に頑張ったよ。作り続けたよ。

何をとかどうやってとかこだわらずにずっと作り続けたよ。

 

でもさぁ、まだ足りないんだよ。まだ外側なんだよ。

いい加減自分信じらんねぇよ。俺は何やってんだよ。なぁ。

 

俺作りたいよ。作り続けたいんだよ。馬鹿みたいだよな? ほんとにさ。

そんなことまだ言ってんだぜ。30にもなってさ。彼女の一つも作らずにさ。

きついよ。人並みの幸せみたいなのに興味持ちてぇよ。でもないんだよ。いまさら。

他のどんなことにも惹かれないんだよ。満足できないんだよ。

いいものを作る以外で人生の充実を感じることはできないんだよ。

作りたいのに作れない今がつれぇよ。ほんとにさ。

 

何ができんのかな? 俺。何が作れんのかな? 俺。まだ何かを作れんのかな?

 

誰が火野映司を殺したか?〜『仮面ライダーオーズ』感想

ハチミツとクローバー』と同時期に観ていた『仮面ライダーオーズ』。地味に平成ライダー初視聴作品です。(と言っても昭和ライダーは観たことないけど)
例によって色々思うところあったのでつらつらと。

いや、普通に面白かったです。実写アレルギーのある僕の中ではダントツで面白かった作品。
ただ、絶賛できるかというと、「うーん」という感じ。そのレベルの作品を48話分見るのは正直きつい部分もあった。
毎週見てるとかだったらもっと印象が変わってたのかもしれないな。

物語的には終始一貫して火野映司/アンクという、文字通り表裏一体の二人の人間(一方はグリードだけど)を描いていました。
ですが、僕にはその二項対立はあんまり映らなかったのが正直なところで、むしろ、火野映司/他のキャラクターというような対立軸が見えました。

この作品で特徴的なのは、登場するキャラクターの全員がそれぞれ自分の欲望(夢や目的)を持っていて、基本的にそれに忠実だという点です。

例えば、物語中盤から登場する伊達さんはそれが顕著で、グリードとの戦いを「お仕事だから」と割りきっています。それは彼が初登場時に言ったとおり、彼の目的が「1億稼ぐ」という実に即物的なものだった点から明らかなのですが、そんな彼がなかなかどうしてカッコイイ。僕はこの作品で伊達さんが一番好きです。

で、どうして彼がカッコイイかというと、それは彼が「仕事だから」という一見受動的なモチベーションで戦っているのにも関わらず、滅茶苦茶強いからです。
普通に考えて、人間は受動的な状況よりも能動的な状況において高いパフォーマンスを発揮するものです。そして、現代において「働く」という行為はすべからく「生きるため仕方なくやる」という受動的なものだと解釈されています。だから、本来は、「人を助けたい」という能動的な理由で戦っている映司くんは、伊達さんなんかよりも数倍強いはずなんです。だけど、実際伊達さんは映司くんよりも強い(コンボによってはオーズの方が強いですが、それを差し引くとやっぱりバースの方が強い)わけです。その理由はまぁ単純で、


伊達さんがムキムキだから(笑)

いや、マジで伊達さんいい体してるからね。
映司くんもわりと鍛えてるけどそれでも伊達さんのガチムチ具合には叶わない。ましてや後藤さんなんて爪楊枝ですよ、爪楊枝(笑)。

まぁ実際これは冗談ではなくて、つまり、伊達さんは「バースをやっているから強い」のではなく、「強いからバースをやっている」んですよね。どういう経緯で彼がバースに任命されたのか(公募制だったのだろうか?)は分かりませんが、少なくとも彼は鴻上会長の眼鏡にかなった上でバースになっています。誰でもバースになれるわけではないというのは、後藤さんの例からして分かると思いますが、それだけ彼にはバースたる資格がある。

映司くんはその逆です。映司くん単体は一般人に毛が生えた程度の人間ですが、それをオーズという強大な力で補って戦っているに過ぎません。つまり、オーズドライバーが彼をオーズたらしめているのであって、彼自身がオーズたりえる存在であるわけではありません。それは彼がオーズになった経緯からして当然ともいえるのですが……。

そして、伊達さんをバースたらしめているのは、つきつめれば「お金」です。
「ある目的」の為に1億円が必要で、それを稼ぐため「だけ」にセルメダルの回収を行っているわけですね。
実に単純です。が、それだけに彼は最初から最後までまったくブレることがない。
彼のやることなすことすべては「お金のため」であり、それ以上でも、それ以下でもありません。
だから彼は戦闘中、他の何かに気を取られることはなく、自分の仕事をきっちりこなします。

さて、その一方で「仕事とは何か?」と悶々と悩み続ける人がいます。そうです、我らが後藤さんです。彼はもともと警察官だったらしく、「世界を守る仕事がしたい」という目的で鴻上ファウンデーションに転職をした厨二病なお兄さんなわけですが、どうしてか世間は彼に辛い(笑)

「鴻上ファウンデーションライドベンダー隊隊長」という肩書きを持ちながらも、序盤の彼の仕事といえば鴻上会長のパシリばかり。頼みの部下たちは1話で全滅。久々にあった元同僚には「よう、お前正義の味方になるとか言ってたけど、今なにやってんの?www」と小馬鹿にされる始末。まさに同窓会に顔を出してしまったフリーター状態。居たたまれません。



世界を守るお仕事中の後藤さん(22)


昔の同僚に遭遇し(´・ω・`)となる後藤さん(22)


そんな後藤さんは、迷走しまくった挙句、映司くんたちのいる多国籍料理店「クスクシエ」でウェイターとして働くことになるわけですけど……。
それにしてもこの二人は対照的ですよね。「世界を守る仕事がしたい」という強いモチベーションを持っているにもかかわらず、後藤さんはバースにはなれませんでした。伊達さんがバースとして登場する直前に彼は鴻上会長からバースについて話をされますが、プライドの高い後藤さんだけあって素直にそれを受け取ることはしませんでした。というか、実際は「物理的に」なれなかったわけなんですけども。

ここで皮肉、というか興味深いのは「世界を守りたい」という気持ちだけでは世界を守るどころか土俵にすら上がれないということ。従来のヒーローモノでは、ヒーローたる条件の一つとして「世界を守りたい」というモチベーションがあるわけですが、それは必要条件であって十分条件ではないわけですよね。『偽物語』でも阿良々木くんはこんなことを言っていました


正義の第一条件は正しいことじゃない、強いことだ。

うーん、実に現実的というか。
ヒーローだから強いのではなく、強いからヒーローなんだという論理転換です。

伊達さんは「世界を守りたい」などというモチベーションはこれっぽっちも持ち合わせていなかったけど、結果として敵を倒して平和を維持している。一方、後藤さんは「世界を守りたい」と思ってはいるのだけれど、実際何も出来ていない。この対比が面白かったですね。鴻上会長は後藤さんを評して「無駄なプライドを捨てて欲望に忠実になるべき」と言っていましたが。

さて、「戦う理由」で言えば、当然主人公である火野映司/仮面ライダーオーズについても触れておく必要があるでしょう。
この作品のキャラクターたちはみなそれぞれに自分の欲望に忠実に生きているのですが、映司くんは一番最初から「俺には欲望がない」ということをほのめかしながらもヤミーが出現するたびに戦いに赴きます。

なぜ火野映司は戦い続けるのか。

映司は第1話で瀕死になった比奈ちゃんのお兄さん(真悟さん)に取り付いたアンクからオーズドライバーを託され、オーズとして戦うことになるのですが、この二人は最初から最後まで「仲間」という関係ではなく、むしろ目的のための「共闘関係」にありました。アンクは、完全復活を果たすためにコアメダルとセルメダルを集める必要があるのですが、どうやら自分ではそれは難しそうなので、オーズドライバーをもった映司にそれを委任します。実際、映司はその要求を飲む道理などまったくないのですが、アンクが真悟さんから離れてしまうと彼が死んでしまうということを知り、半ば強制的にアンクの要求を飲むこととなります。

さて、表向き二人はこういった関係で戦いを続けるわけですが、映司が仕方なく戦っているかというと、そうでもありません。むしろ、戦うことに生きがいすら感じているような危うい印象さえ覚えます。

映司くんはもともと世界を放浪していたときにとあるアフリカの貧しい国で内戦に巻き込まれ、親しくしてくれた子供を助けることができず、それどころか父親の差し金で自分だけ助かってしまったという経験に非常なコンプレックスを抱いたキャラクターです。あのとき自分にもっと力があればあの子を救えたのではないか……という後悔が彼をオーズに変身させるモチベーションとなっています。

だから、映司くんは欲望がないように描かれながらも、むしろ、作中で最も強い欲望を持ったキャラクターだったわけです。(鴻上会長曰く、それゆえオーズの器足り得た)

しかしながら、映司のもつ欲望が明らかに他のキャラクターたちと異質なものであることは否定できません。

伊達さんの欲望は「(生きるために)1億稼ぐ」ことだったし、後藤さんの欲望は「世界を守る仕事がしたい」、比奈ちゃんは「ファッションデザイナーになりたい」という個人的なものでした。個人的という観点で云えば、それは敵であるグリードもまったく同じでした。当初こそ彼らがどういうモチベーションでヤミーを生成しているのか不透明でしたが、最終的には彼ら全員の欲望が「人間になりたい」というプリミティブな欲望に帰結しているということが判明します。やや歪んだものであることは否めないものの、物語のラスボスである巻博士の行動も「物事は須らく終わるから美しい」という非常に個人的な価値観、欲望に基づいたものでした。

ですが、映司のもつ欲望は「個人的な」ものとは言いにくい。なぜかというと、彼の「欲望」というべきものが、外向きのベクトルを持っているからなんですね。

ここでいうベクトルとは、その欲望伴った行動が最終的に帰結する対象のことを差しています。例えば、伊達さんの欲望の帰結する先は伊達さんの生存なわけですから、内向きのベクトルです。大仰なことを言いながらも後藤さんの欲望はつまるところ「自己実現」であり、それは比奈ちゃんと同じで、内向きです。

しかし、「人を救うこと」という欲望の帰結先はあくまでその相手です。映司の欲望は、「自分の出来る限りの人を救うこと」でした。

世の中にはそういう自己犠牲というか、究極的な利他主義者がいることを僕は否定しませんが、果たしてそれがその人自身の幸せにつながるのか、ということについては懐疑的です。人間、人が困っていれば出来る限り助けになろうと思う(と僕は信じているけどあんまり信じられない現実)わけで、その意識は大同小異、絶対値は違えどベクトルは同じだと思います。試験会場で筆記用具を忘れてしまった人がいて、その人に鉛筆を貸してあげるのはcommon senseでしょう。もしかしたら2本貸してあげる人もいるかもしれないし、消しゴムも貸してあげる人もいるかもしれません。それはその人の意識の差で、消しゴムまで貸してあげた人が鉛筆しか貸さなかった人よりもえらいというわけではありません。それが映司くんが言うところの、「自分の出来る限りの」助けですね。

ですが、その場で1本の鉛筆しか持っていないにもかかわらず、その困っている人に鉛筆を貸してあげる人がいるとしたら、どうでしょうか。普通に考えてその鉛筆を渡してしまえば自分は受験できなくなるわけですから、試験を受けに来ている以上その選択肢はありえないはずです。

そして、それをやってしまうのが火野映司という人間なんです。
彼は表向きには「自分の出来る限りの」ことをやっていると嘯いていますが、実際はそれは嘘です。彼は人を救うために自分の命を省みません。それははっきり言って「自分の出来る限り」の限度を超えています。確かにヤミーという怪人に対抗出来る存在は、世の中にオーズ(とバース)しかないのかもしれません。ということは、オーズが何もしなければヤミーは暴れ続け、人々を殺戮し続ける事になります。これは確かに好ましくないことですが、「オーズにしかできないから」という理由でオーズの命を人々の命と天秤に掛けることはできないはずです。なぜなら、オーズも火野映司という一人の人間だからです。大勢の人の命を救うため少数の人を切り捨てるという考え方はマクロな視点からいえば効果的なこともありますが、倫理的にそれが許されるはずはありません。なぜかといえば、この論調を支持する人間はいつでも救われる大勢の方に含まれるからで、結局のところ、当事者にとっては救われる数が問題なのではなく、自分が助かるかどうかが問題だからです。また、これはごく当たり前のことで、誰でも自分の命をみすみすと投げ捨てることは嫌なはずです。

つまり、火野映司が置かれている状況というのは、

「ヤミーを倒せるのはオーズだけである」
「オーズに変身できるのは火野映司だけである」
「ヤミーを倒さなければ大勢の人間が殺戮される」

→「オーズがヤミーと戦わなければ大勢の人間が殺戮される」

というなんとも理不尽なものです。
特に、ヤミーを倒せるのがオーズしかいないというところが理不尽の極みで、この時点で映司が戦わないという選択をした時点で、ヤミーによる殺戮が結果的に火野映司のせいになってしまうという点です。言うなれば、試験を受ける人間が2人しかいなくて、片方が鉛筆を忘れてしまい、もう一方が1本しか鉛筆を持っていなかったような状況です。この場合、当然忘れた方に鉛筆を貸せるのは鉛筆を持っているもう一方ですが、持っている人は自分が貸してしまえば自分は試験を受けられなくなるわけですから貸せるはずがありません。にも関わらず、忘れた方の生死(とあえて呼ぶことにする)を握っているのは鉛筆を持っている人間だけです。

だから、本来「鉛筆を忘れたから試験に落ちた」という因果関係が、「鉛筆を持っている方が鉛筆を貸さなかったから試験に落ちた」という因果関係にすり変わりかねないんですよね。もちろん、これはやや極端な例ですが、構造としては大して変わらないはずで、もう片方が2本鉛筆を持っていたとしても、状況はそんなに変わりません。なぜなら、不測の事態をみこして保険を持っておく必要があるからです。その場合も、因果関係は後者にすり変わります。

話を戻すと、generalな人間であればこんな仕打ちに耐えられるはずがありません。

「お前が戦わないと大勢の人間が死ぬ。だから、大勢の人間が死んだらお前のせいだ。でも、お前の命のことは知らん」

と言われているのですから。

にも関わらず火野映司は戦い続けます。上記の破綻した論理を無視すれば、彼が戦う理由は真悟さんの命だけであって、それすらもアンクに握られている以上映司くんがどうこうできる問題ではなく、従って真悟さんが亡くなっても映司くんは何も悪くないはずなんです。(真悟さんが瀕死になったのも、突き詰めれば自分のせいだから)

つまり、彼が戦う理由客観的な理由は何一つなくて、彼が戦っているのは彼の自由意志によるものです。そしてそれというのが「出来る限りの人を救いたい」という彼の欲望なのですが、実際それは欲望というにはあまりに脆い。

なぜかといえば、欲望というのはまず何らかの動機があって、それに基づくゴールが必ずあるからです。例えば僕なら

欲望:「性能の良いパソコンが欲しい」

という欲望があったとして、これに付随する動機とゴールが

動機:「使っているパソコンの動作が遅いから」
ゴール:「新しいパソコンを買う」

になります。ですが、これだけでは当然欲望は叶うはずはなくて、欲望とゴールを結びつける「行動」が必要になります。この場合では、「新しいパソコンを買う」にはお金が必要で、従って

行動:「アルバイトをしてお金を稼ぐ」

という要素のが追加されるわけです。僕はこれが健全な欲望の在り方だと思うし、オーズに登場するキャラクターたちは映司を除いた全員がこの欲望モデルに当てはまります。

ですが、映司だけはこのうち「欲望」「動機」「行動」の3つしか彼の中に存在せず、ゴールが存在しないんですね。だから彼がオーズとして人を救い続けたとしても、最終的に彼がたどり着く場所がない。つまり、彼の欲望は終ぞ満たされることがないんです。だから、彼が自分の命すらなげうってしまうのは、彼の中に明確なゴール(こうすれば、人を助けたことになるというモデル)が無いためです。彼も、出来ることなら自分の命は投げ打ちたくなんかないんでしょうが、ゴールが見えない以上、自分の命をなげうてば人を救ったことになるかもしれないという危険な思考に行き着いてしまうんですね。

これが外向きベクトルの欲望の危うさで、仮に自分の中に確固たる「欲望」「動機」「行動」があったとしても最終的な「ゴール」の判断が他者に委ねられている以上、自分ではその欲望を叶えることができないんですよね。『ハチミツとクローバー』の感想の山田さんの部分でも触れた、「自分の好きになった人に自分を好きになって欲しい」という欲望もこのタイプですね。欲望自体は個人的なものなのに、その実現判定権が自分にない、という矛盾です。

だから火野映司は戦い続けなくてはいけないんです。文字通り、死ぬまで。
それも、誰かに強要されるわけでもなく、確固たる自分の意志で、です。

物語的にもこれは結構重要な部分だったらしく、42話でヤミーに襲われた人々が亡者のようにオーズを呼ぶシーンがあります。このとき、プトティラコンボに蝕まれた体をおして戦いに赴こうとする映司を真悟さんが止めるんですね。

このまま彼を都合のいい神様にしちゃいけない。

僕はこのシーンはすごく好きですね。ここまでずっと映司くんに守られるばかりで映司くんに何も出来ていなかった比奈ちゃんが、はじめて自分にも出来ることについて意識を向けたわけですから。

まぁでも結果的に映司くんはそんな比奈ちゃんや後藤さんたちの静止すら振りきって戦いを続けていくのですけれど。

ヒーローの宿命として、人々の幸せを守るためには自分自身の幸せを顧みてはいけないという問題がありますが、現実問題としてこんなひどいことあるでしょうか。この物語で描かれているのは、火野映司の痛々しいまでのヒーロー性です。この「痛々しい」というのが肝要で、本来ヒーローというものは皆が憧れ、とにかく強くてカッコイイそういう存在なわけです。ですが、火野映司の戦いを見ていて彼に憧れる人が果たしているのかどうか、僕はちょっとわからないですね。

確かに火野映司はヒーローの条件を十分に満たしてはいるのですが、仮面ライダーオーズという存在を俯瞰してみたときにその歪さ、「無理してる感」が出てしまうんですよね。で、それがどうしてかと言えば、結局映司くんは人のために戦ってはいても、映司くんに助けられる人は自力でその問題を何とかしようとかそういう意識が全くないという点ですよね。自分で何とかできなくとも、その人の周りにいる人達が何とかしてあげられたかもしれないのに、誰ひとりとして何もしてあげない。だから結果的に映司くんが戦うしかなくなってしまう。そういう状況なんですよ。

比奈ちゃんや後藤さんたちは、「火野映司を戦わせているのは自分たちだ」という欺瞞に気がついたからまだよかったものの、映司くんに救われた人たちは誰ひとりとしてそれを自覚していないんです。

この構造は『東のエデン』で描かれた滝沢朗の姿とまったく同じで、「誰かがやらなければいけないけどきっと誰かがやってくれるから自分は何もやらない」というこの国を覆い尽くしている「空気」がこの作品には蔓延しています。

今の日本はまぁはっきり言って沈みかけの船みたいなもので、誰もがそれを自覚していながらも、「まぁなんだかんだ言っても誰かが何とかしてくれるだろう」という無責任な考えをどうしても捨てようとしない。そういう場当たり的なメシアニズムが21世紀になっても蔓延しているわけですよ。

ジュイス、俺をこの国の王様にしてくんない?

古来より世が乱れたときに人々は超常的な「何か」に頼ってきたわけで、それ自体は否定しません。それが宗教であるにしろ、イデオロギーであるにしろまぁ大した違いはないのですが、その対象が生きた人間に向いたとしたら恐ろしい。だって、究極的にはその人間が死ぬことで世の中が良くなるのであればその人に救われるはずの人たちは迷わずにその人を殺しにかかりますからね。表向きにはなんだかんだ言いながらも、結果的にはその人の死を望むような、そういう後暗い感情を誰しも持っている。

だから、もし火野映司が戦いに破れて命を落としたとしたら、それはヤミーのせいではなく、彼にヒーロという役目を押し付けた僕たちのせいです。

もちろん、僕たちの現実世界には世界を破滅に導く怪人たちもいないし、それと戦うべきヒーローも存在しないですが、何かにつけて火野映司や滝沢朗的なヒーローを祀り上げる空気は間違いなく僕たちの中にある。

究極的には、火野映司が戦い、人を助ける必要なんてないんですよ。彼のいないところでお互いに助けあったり力を合わせたりすれば、オーズという偶像は必要なくなる。そうすれば、映司くんもきっと内向きのベクトルをもった健全な「欲望」を見つけることができるし、彼も人間の一人として救われるはずです。

狂った恋の物語〜『ハチミツとクローバー』感想

※一応ネタバレ注意。その上ものすごく批判的な記事なのでファンの人は見ないほうがいいです。

読み終わったので、つらつらと。
まぁね。この作品を一言で言うとですね。

森田△

以上です(笑)

……いやぁ、超絶重いね。コレ。
僕自身、友だちに進められていて、何年かごしにやっと読み終わったんですけど、与えられていた前情報が「森田△」だけだったので、『さーてリア充大学生のほろ苦い青春群像劇でも見て欝になるか☆』くらいの軽い(?)気持ちで読み始めたんですが……

((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

いや、怖いよこの話。何が恐ろしいってさ、登場人物でまともな恋愛(それが何かは知らないけど)をしている人が、竹本くん以外一人もいないところだよ。でも、誤解してもらいたくないんですが、基本的に、この作品の登場人物たちは「イイヤツ」なんです。みんな気のいいヤツで、現実にいたら楽しいんだろうなーと感じさせてくれる人たちです。そして、作中でもそれは正しくて、この子たち、個人個人の友だち関係や、全体としての仲間関係見ればすごい羨ましいんですよ。

でも、それぞれの恋愛関係となると、まるでマトモじゃない。はっきり言って、狂ってる。

まず、真山。

ストーカー乙!

いやいやさすがにヤバイでしょ。ダメだよ、犯罪だってそれ。
うーん。いや気持ちはわからんでもないんだよ、実際。

真山が憧れているリカさんという年上の女性は、真山たちが通う大学のOGであり、花本先生という先生の同級生だった女性です。リカさんは、とある事情から恋人を事故でなくしていて、それをずっと引きずりながら生きている痛々しい人です。真山は、ひょんなことから彼女の事情を知り、決して彼女が自分のことを振り返ってくれないと分かりながらも、彼女から離れることができません。

これはですね、いわゆるひとつのあるあるですね。年上の「オトナの女性」という存在に憧れる男というのは、決して少なくないですね。僕もどっちかといえば年上の女性が好きです。しかしながら、往々にして「オトナの女性」というのは恋愛観も「オトナ」なので、年下の男は恋愛対象に入らないことがあります。需要と供給の不一致です。世知辛いですね。その葛藤に悩んだ少年は、ある日そのお姉さんが知らない男と仲良く歩いているところを見て、大人の階段を昇るわけです。

しかし、この真山という男、一筋縄ではいきません。
リカさんが恋人を失って、もう恋愛をできないという状況を知った上で彼女につきまとっています。
毎夜彼女のマンションに行ったり、車で拉致したり、電車で拉致したり、彼女の事務所に押しかけて就職したり、彼女のメールを築一チェックしてたり、まぁやりたい放題です。

最終的に彼女を追ってスペインまで行きますからね。すごいよその根性。

次に、山田さん

僕は好きでしたよ。可愛いし、素直だし、見てて飽きない女の子です。

彼女は真山のことが好きで、それを彼に伝えてはいるんだけど、真山(↑)があんなんだから当然彼女はふられてしまいます。その時の真山のセリフがこちら。

「なぁ山田、どうして俺なんかを好きになっちまったんだよ」

ほんとだよ!!!

なぜだ……なぜなんだ山田さん……。そいつはお前が思っているようなマトモな人間じゃないんだよ……。

まぁ、そこらへんは個人の自由ですから僕は何も言えないですけど。
でもね、この子ね。真山に振られてからがうざいんだ、コレが。

未練ダラッダラで、ことあるごとに真山のことが好きだと連呼するし、なんだかんだでよく顔を合わせる度にドキドキしてるし。何かのきっかけでその好意が自分に向かないかなぁと期待してしまう。

いやね! 分かるよ!? 分かりますよ、その気持ち!!
でもさ、あまりにも引きずりすぎだろ。物語のスタートからゴールまでずっとそんな感じじゃん。

真山も真山でクソ野郎なんだよ。彼女の気持ちを知りながら思わせぶりな態度をとったり、「紹介しろよ」という友だちからの要望を頑なに拒んでたり。お前がそんなんだから山田さんも諦めがつかねーんだろーが!!!

……つい熱くなってしまった。
要はね、彼女が抱える問題というのは、恋愛に対して奥手過ぎるということなんです。
彼女はなまじ普通に可愛いかったため、小さい頃から箱入りで育てられてきました。箱入りというのは彼女の父親がそういう人だったというのもあるのに加え、彼女の周りに居た幼なじみの男の子たちも変な連帯意識で彼女への好意を恋愛に昇華させようとしませんでした。

結果、彼女は人の好意を純粋に受け取ってしまうイノセントな人間に育ちました。
彼女は恐らく生まれてから今まで他人から悪意を向けられたことのない人間なんだと思うんです。

人間というのは周囲の環境によってその人間性が決まると言ってもよくて、現実でも育ちが良い人は「普通にいいやつ」だということが結構ありますよね? そういうアレです。

他人から悪意を向けられたことの無い人間は、辛辣な言い方になりますが、人の気持ちに鈍感です。鈍感というか、好意以外の気持ちを知らないんですね。それは悪意だけではなく、恋愛もそうです。

彼女は偶然にも真山を好きになることで、「人を好きになること」を知りました。つまりは恋ですね。ですが、実際それはうまくいきませんでした。彼女が真山に振られたあともうまく「失恋」できなかったのは、彼女が人を好きになること「しか」知らなかったからです。

まぁ僕なんかが恋愛を語るのは片腹痛いんですが、恋愛というのは両方が両方のことを好きなだけでは成立しないんですね。というのは、その場合だと、「相手が果たして自分のどういうところを好きなのか?」ということが分からないからです。つまり、「人に好きになられる」ことがどういう事なのか知らないと、求めるばかりで与えることができなくなるわけです。それだとミスマッチが起きていい関係を築くことができません。

山田さんは、真山に振られてしまったあとに、色々あって幼馴染みの男達5人にプロポーズされますが、あまりに突然のことに逃げ出してしまいます。今までずっと友だちだと思っていた人たちから、ある日突然まったく違う種類の好意を向けられたのだから、まぁテンパってしまって当然です。

まぁ、結果的に彼女はそれで自分が真山のことを好きでいたところで真山が自分を好きになることは在り得ないと悟るわけですが……

まだ吹っ切れないっていう(笑)

その後、彼女は真山の職場の野宮という男と知り合い、なんやかんやあるんですが……。
まぁ、この野宮という男も気にくわないんですよ。

真山の知り合いだから、真山と山田さんの関係を完全に把握しながら、目下失恋中の山田さんに電光石火で言い寄り、何かにつけて口説こうとします。物語の後半は、山田さんと野宮のgdgdな関係が続くんですが、これもまた見ていて鬱陶しい。

失恋のできない山田さんは、自分が初めて抱いた「好き」という気持ちを簡単に捨ててしまっていいのか? と悶々と悩み続けて身持ちを固くするし、野宮は野宮で彼女に合うために鳥取から東京まで車で会いに行ったり、車で拉致して(この漫画こんなんばっかりだな)ホテルに連れ込んだ上で何もしないとか、ちょくちょくイケメン具合を見せるんだけど、コイツがいったい何をしたいのかまるで分からない。最後の最後まで野宮が山田さんのことをはっきりと好きだと明記されはしなかったし、ホント謎。

失恋中の女の子の妄想が具現化したようなそういう存在です。人造白馬の王子様的な。
男である僕には、山田さんの体目当てのスケベな男にしか見えなかったけど(笑)

最終的にこの二人がどうなったのかは知らないですけど、もう勝手にしてくださいって感じです。

次に、はぐちゃん

彼女はまぁ、

ただのメンヘラです。

最初から最後までまるで共感できなかった。

もともと長野の山奥で孤独に創作活動を続けていたところを親戚である花本先生に見出され、上京してきた彼女。

はぐちゃんは何かを創作することに関しては天才的で、周囲もそれを評価して彼女にいろんなことを言うわけですが、それが彼女を病ませるんですね。彼女にとって創作活動とは呼吸をするようなもので、それをしないわけにはいかないんです。ですが、本当に呼吸のようなものであるため、周りの人間のことを意識する意味が分からないんです。僕たちが普段呼吸をするとき、周りの人を意識して「いい呼吸をしよう!」と思うことなんかないですよね。それと同じように、誰かに「これこれこういうふうに呼吸しなさい」と言われたら「はぁ?」という風になりますよね。はぐちゃんはそういう人間です。

……というか、もっと言ってしまえば、「それだけ」の人間です。
彼女は創作活動を通してしか人とコミュニケーションがとれません。
それ以外の、例えば彼女がしゃべる言葉は、実際彼女の中で意味をなさないんですよ。

作中では、彼女をとりまく仲間たちが異常に彼女に対して優しいがために普通の人間のように振舞っていますが、彼女は単なる化物です。彼女の周りで様々な人間がそれぞれ複雑な人間関係の悩みを抱えながら生きている間も、彼女はまったくそれについてコミットしません。理解もしません。(それは、はぐちゃんにたいして皆が変に優しすぎるからではあるんですが)

にもかかわらず、彼女は作中で一番モテモテなんだよね(笑)
仮主人公である竹本くん、最強ヒーローである森田さん、そしてジョーカー的存在である花本先生という、この作品の中で比較的マトモな人たちに尽く好意を向けられます。

僕は竹本くんと森田さんが特に好きなので、本当に彼らが不憫で仕方がない。

しかも、この子、最終的に花本先生とくっつくからね。

……いやいや花本先生アンタそういう立場じゃないでしょ。
教師という立場としても、親戚という立場としても(叔父―姪は法律上結婚出来ない)アウトでしょ。

しかもはぐははぐで本当は森田さんが好きなのに、それを違う違うと封じ込めた上で、自分が持っている、花本先生へのプリミティブな恋心に準じようと努力して、結果的にそれを自分で捩じ曲げてしまう。怖いよ。何がキミをそこまでさせるんだよ。そんで花本先生もそこはきっちり断ろうよ。

……まぁ花本先生も被害者の一員ではあるんだけどね。はぐちゃんが事故にあわなければああいう結末になることもなかったでしょうし。

南無阿弥陀仏

最後に、森田さんと竹本くん。

僕はこの二人に幸せな人生を送ってほしい。
というか、結果的にその可能性が残されたのがこの二人だけっていう。

まず、竹本くん。僕は全国のヘタレ男代表として彼に惜しみない賞賛を贈りたい。
彼は、作中で唯一キチンと失恋できた貴重な(?)存在です。

彼は一番最初にはぐに一目惚れして、その後も何かにつけて彼女にアプローチしようと奮闘するのですが、なかなかうまく行かない。それは、竹本くんが単にヘタレだったということもあるんですが、彼の目の前には常に森田さんという勝ちようのない存在がいたからです。

森田さんははっきり言って自由人。何にも縛られず、全てから独立して竹本たちに接するため、物語の要所要所で物凄いヒーローっぷりを発揮してきました。真山にしろ山田さんにしろ、森田さんがいなければもはや生きてエンドマークを迎えられていたかどうかも怪しい(笑)。それだけ森田さんはカッコイイひとです。思い悩む彼らの前に立ちふさがって、体を張って悩みを受け止め、導いてくれます。だから、森田さん実によく怒る。彼らの悩みの深刻さを人一倍知っているからこそ、彼らをどうにかしようとひとり奮闘します。

そんな森田さんですが、どうしてかはぐを気に入ります。はぐもはぐで森田さんのことを何となく気になるようで、それが恋愛かどうかは分からないまでも、それを傍から見せつけられる竹本くんの心中は穏やかではありません。それはそうですよね。だって森田さんかっけーもん。絶対に敵わないもん。どこをどう比べても絶対に自分には勝てない。竹本くんにとって森田さんは常にそういう存在でした。

そんな感じで竹本くんは、自分の気持ちを伝えられないまま、人生の指針までも見失い、「自分探しの旅」にでかけます。なんやかんやあって彼は一回り成長して戻ってきて、はぐに自分の思いを伝えるわけですが、まぁ当然のように振られます。振られるどころか、「は? お前何言ってんの?」くらいのテンションです。そんな結果にも、竹本くんは満足気です。

竹本くん……キミ男だよ(泣)

旅に出る前の竹本くんにとって、はぐちゃん、そして森田さんという存在は、両者が両者とも彼に自信を失わせる存在でした。はぐちゃんに淡い恋心を抱くばかりで、自らの創作活動も、人生の指針も見つけられず、命を削るように何かを作り続けるはぐに声すらかけられませんでした。それは、彼女を見ていると自分の凡庸さ、空虚さが如実に感じられるからでしょう。「好きな人に好きとすら言えない」という悩みがとてもちっぽけに思えてしまって、創作のなか地獄のような苦しみを戦っているはぐは、彼にとって遠すぎました。

一方、森田さんは「森田さん」という存在でもって彼を苦しめました。彼は生まれながらにして「持っている」人間でした。彼がやることなすことは全て上手くいき、あらゆる物事が彼に味方する、そういう人間です。ですが、それ以上に彼が天才的なのは、どんな状況でも他人に流されないということ。確固たる自分を持っていて、常にそれに準じて生きている。だからカッコイイんですね。そして、それというのはこの現実世界でほぼ不可能に近いことだから、こそ。

ですが、旅から帰った竹本くんは本当に清々しい。
彼が日本の果てで何を得たのかはよく分からないんですが、とにかく彼がはぐちゃんに「僕は君が好きだよ」とストレートに伝えられたのは、あっぱれと言いたい。

実際のところ、いくら旅で何かを得たところで、竹本くんは森田さんにはなれなかったし、はぐちゃんにもなれなかった。だからこそ、自分は自分だと胸を張って言えるようになりました。自分は森田さんのようにヒーローにはなれないし、はぐちゃんの隣にも立てない。だけど、自分が彼女を好きであることにそんなことは何の関係もない。そう思えるようになったんですね。

そして、物語は彼が青春の象徴であるアパートから出て、街を離れるところで終わります。

――オレはずっと考えてたんだ
うまくいかなかった恋に意味はあるのかって
消えていってしまうものは無かったものと同じなのかって

いまなら分かる 意味なるある あったんだよここに
時が過ぎて何もかも思い出になる日はきっと来る
――でも

ボクがいて 君がいて みんながいて

たったひとつのものを探した あの奇跡のような日々は
いつまでも甘い痛みとともに 胸の中の遠い場所でずっと
なつかしく回り続けているんだ……

……最終的に竹本くんは自分の好きな女の子を「救うことさえ」できませんでした。
4年間の(正確には5年ですが、物語の時間軸で云えば4年)大学生活のなかで彼が成し遂げたことといえば、はぐちゃんに「好きだ」と伝えられたことだけです。自分探しの旅の道中、自分の進むべき道を見つけることはできましたが、大学生活のなかで彼が何かを「勝ち取る」ことはできなかったわけです。ですが、恐らくこの物語で一番幸せなのは間違いなく竹本くんです。

なぜかといえば、彼は紆余曲折をへたもののモラトリアムから無事「卒業」できたからです。

真山はリカさんという幻想から結局離れることができず、正式な恋愛関係にはなれないままに彼女を追ってスペインに渡りました。山田さんは最後まで自分本位な恋愛観から抜け出せず、野宮さんという都合のいい王子様に甘えてよく分からない関係に落ち着きました。はぐちゃんは4年間一緒に大切な時間を過ごし、本心から優しくしてくれた皆との関係よりも、創作(=生きること)を続けることを選びました。そして、花本先生はそんなはぐちゃんを救うために自分の人生を犠牲にしました。

そして、何よりの被害者が森田さんです。
彼は、素晴らしい才能と人間性を持ちながらも、うじうじと悩み続ける彼らを救うために自らの身を粉にして奮闘したにも関わらず、森田さんに救われた彼らは誰ひとりとして森田さんに手を差しのべることをしませんでした。はぐも、山田さんも、真山も、彼に救われたことなど忘れ、あくまで自分本位の考えを突き通しました。だから、森田さんが兄弟の復讐劇を終え、生きる意味を見失いつつあるときにさえ、はぐは彼のことではなく、自分のことを考えていました。森田さんがはぐから身を引いたのは、彼の優しさにほかなりません。

この物語における人間関係の問題点は、最終的に失恋できなかった人たちが落ち着いた恋愛関係が、尽く対等な関係ではないという点です。リカさんは真山の好意に気が付きながらも無理だと頑なに拒み続けながらも、どういうわけか真山と寝たりもする、普通に自分勝手な人間です。そして真山は、そんなリカさんを「救おう」と必死になり、結果的にそれはできたのかうやむやです。山田さんは上述したとおり、とにかく自分勝手。真山の優しさに甘え、野宮の優しさに甘え、その上その自覚がない。野宮もなぜかそんな山田さんを体を張って「救おう」としますが、彼の心中は結局明かされませんでした。はぐは自分には創作のない人生はありえない、と言いますがそれは実際嘘です。確かに彼女にとって生きることは作ることなのでしょうが、それはいつでも彼女を支える存在があったからです。彼女はそれについてまったく自覚していません。その上で、大胆にも花本先生に「あなたの人生をください」と言ってのける。花本先生もそんなはぐを「救おう」と自分の人生を犠牲にします。

もう分かると思いますが、これらの関係は全て「救う」「救われる」という歪な関係なんですよね。
リカさんも、山田さんも、はぐも、なんだかんだと持論を並べて強がりながらも彼らがいなければ生きて行けないんです。
にもかかわらず、自分では彼らに「救われている」という自覚がまったくない。

一方、男性陣はどういうわけか全員が全員自分の人生をふいにしてまでも彼女たちを「救おう」とする。

僕はこれが恐ろしくて恐ろしくてたまらないんですよ。
はたして、彼ら彼女らがそのまま恋愛関係になったとしても、ぜっっったいに幸せにはなれませんよ。

だから、最終的に竹本くんがこの歪んだ関係から「退避するように」フェードアウトしていったのは実に示唆的です。
だって、彼の中ではこのおかしな関係が「大切な思い出」になったんですから。
彼はなまじヘタレだったおかげでそのぬかるみに足をいれず、結果的に「卒業」ができました。

しかし、彼と森田さん以外の全員、花本先生やリカさん、野宮までもが、喉にヘバリ付くような終わりのないモラトリアムに閉じ込められてしまいました。僕にはそれが心底恐ろしいんです。

そして、森田さんははぐを思って自ら身を引き、単身アメリカに渡ります。
森田さんは前述のとおり独立した存在ですから、彼ら彼女らの関係には深入りしませんでしたが、恐らく彼の中に残ったのは行きようのない徒労感でしょう。彼は他の人たちと異なり、誰かを「救う」ということを意識することのない人間です。あくまで、自らの思ったことをビシッと言って、それに行動を伴わせているだけです。だから、一度は卒業し、また再入学を果たした彼が最終的にアメリカに行くことに決めたのは、あの場所に自分の居場所を見つけられなくなったからだと思うんですよね。「自分のしたことは一体何だったのか」さすがの森田さんもそれくらいの文句は言いたくなるでしょう。

ご存知のとおり、森田さんは『東のエデン』の滝沢朗のモデルになったキャラクターです。
東のエデン』の中で彼は一度自分の記憶を消してまで日本を救おうとしました。
彼が記憶を消したのは、彼が救ったはずの「無責任な大多数」の人間に尽く裏切られたからです。

人は、人に救われることはできても、人を救うことはできません。
徹底したヒロイズムに徹するのであれば見返りを求めてはいけません。(『仮面ライダーOOO』の火野映司のように)
だからこそ、「救うー救われる」という恋愛関係は破綻するんです。
人は人に「救われ続けること」は可能でも、「救い続けること」は不可能です。
なぜなら、「救うこと」自体はその人の「救い」にならないからです。

そういう意味で、モラトリアムという呪縛から無事脱出した竹本くんと、諦めるように去っていった森田さん。
彼らは自分の求めるものは確かに何一つ手に入りませんでした。ですが、結果的に彼らは前に進むことができました。

僕は彼らの幸せを願ってやみません。
自分は誰かを救えるという驕りを持った真山と野宮、それに甘えるリカさんと山田さん。
彼らは決して幸せにはならないでしょう。自分たちは幸せなんだと自己暗示を続けるしか、生きるすべはありません。

はぐちゃんと花本先生は、実際、恋愛関係ではありません。あれは、親子の関係です。
だから、ある意味救いがあるのかもしれません。でも、だからこそ、花本先生は、はぐを「救う」という呪いを、未来ある竹本くんや森田さんに押し付けなかったんでしょうね。これは自分の招いた結末だと、その役目を諦めるように受け入れたんでしょう。

……或いは、そこまでしても「救いたい」ほど好きな人がいるというのは幸せなことなのかもしれません。
が、しかし。僕にはちょっと理解出来ないですね。現実でもそういう関係は普通にありそうだから、苦い気持ちになります。

軽い気持ちで読むと、不要な心労を被ることになる、素晴らしくよく出来た、作品です。

黄瀬やよいの物語〜『スマイルプリキュア!』感想

今週の『スマイルプリキュア!』を見てて思ったけど……やよいちゃんいいキャラしてるよ。

放送前からなんやかんやで話題になっていた彼女ですが、実際僕はそんなに好きじゃなかったんですよ。なので、「あーこういうの好きな人たくさんいるんだろうなー」くらいの感覚で眺めていたんですが、今週ふと気が付いた点があったので珍しく書き起こしてみます。

まず最初に気になっていたのは、やよいちゃんが何かにつけてネットの大友から「あざとい」とネタにされていたことでした。「まぁ、確かに……」と思う部分もあるにはあるんですが、これってよく考えたらおかしい。なぜかといえば、巷に跳梁跋扈する萌えアニメの女の子たちは、大抵の場合、視聴者に記号的な可愛さを提供しているからです。冷静に考えたら「お前ふざけてんの?」という感じの女の子たちがまぁたくさんいるわけですよね。でも、それらは嬉々として受け入れられているのにどうしてここにきて「あざとい」というネタが出てくるんだろうとそう不思議に思っていたというわけです。

で、端的に言ってしまえば、彼女が「あざとい」と言われる最大の理由は他のキャラクターたちが比較的コミカルな描き方をされているのに対してやたらと男心をくすぐるような描き方をされているからですよね。(みゆきちゃんを見てみろよ! あれどういうことなんだよ!)

……とまぁこういうことはアニメの世界というよりはむしろ、僕たちの現実世界のほうで多く起こりうることで、実際合コンで一番モテるのは「ゆるふわ系天然女子」だそうです。こういう女の子は、男からは「女の子っぽくて可愛い!」と人気になる一方、同姓からは「あざとい」(出た!)と言われて疎まれる傾向があるとか。(余談ながら、みゆきちゃんみたいな女の子も実際いるんだ、これが)

ですから、やよいちゃんに対する「あざとい」というネタは実際そういう背景があったりするわけです。

ですが、僕はちょっと違う見方をしてます。

そもそも論ですが、やよいちゃんと他の4人は、まぁ言ってしまえば普通の友だちです。恐らくモテる/モテないという利害(?)関係なんかはまったくない、ただの友だち関係です。ですから、彼女がわざわざ「あざとい」といわれるような行為をみゆきちゃんたちに見せる必要がないんですよね。例えば、5人でいて、他の男の子たちと居る時だけそういう感じであれば、まぁ「あざとい」と言われても仕方ないのかもしれませんけど、あの子たち5人の関係性は基本的に「閉じて」いるので、彼女が意識的にそうしているとは考えらません。

では、どうしてやよいだけがそういう描かれ方をされるのか。
僕はそれは単に、彼女が友だち付き合いに慣れていないからだと思うんですよね。

この物語は主人公であるみゆきがクラスに転校してくるところから始まりますが、みゆきとやよいが友だちになったというのは実のところまったくの偶然で、やよいが屋上でひとりお絵かきに勤しんでいるのを偶然みゆきとあかねが見つけて……という感じでしたよね。

つまり、席が近くで転校初日から仲良しだったあかねや、通りすがりにイケメン具合を魅せつけられたなお、それに土下座でスカウトに向かったれいかたちとは、友だちになった状況がまったく違うんです。彼女たちは、それぞれみゆきが何らかの魅力を感じた上で、「友だちになろうよ!」という流れで関係がスタートしていますが、やよいだけは、まったくの偶然です。

だから、もしみゆきとあかねがやよいに気が付かなかったら、恐らく彼女たちは友だちになってさえいなかった可能性もあるわけです。加えて、その時みゆきは新たなプリキュアを探すという目的も持っていましたから、運動神経バツグンのなおや頭脳明晰なれいかがスカウト対象(嫌な言葉だけど)に入るのは自然な流れだったと思います。

ですが、やよいはどうでしょうか? 

彼女の特技がお絵かきだということは、実際そのときまでみゆきをはじめ誰ひとりとして知りませんでした。クラスの中でのやよいの立ち位置は単なる「地味なヤツ」に過ぎなかったわけです。いくら脳天気なみゆきとはいえ、見ず知らずでこれといっていいところのなさそうな子に「プリキュアやろうぜ!」とは行かなかったでしょう。

しかしながら、偶然とはいえやよいはみゆきたちにお絵かきという特技を見初められ、コンクールに出品することになります。結果的にはコンクールではいい成績は取れませんでしたが、ポスターを仕上げる過程で彼女はみゆきたちとの大切な絆を手に入れました。(ついでに、プリキュアの力も)

さて、結果的にみゆきたちと一緒に行動することになったやよいですが、冷静に考えればプリキュアという役回りは貧乏クジもいいところです。にもかかわらず、とうの本人は至って平静、どいうかむしろ嬉しそうです。

なぜでしょうか?

それは、まずやよいが「ヒーローに憧れていたからでしょう。

古今東西、いついかなる場所でも、ヒーローというのは子供たちの憧れです。そして、その理由は何かといえばまず間違いなく「カッコイイから」です。そしてここが肝要なのですが、なぜ「カッコイイ」ヒーローに憧れるかといえば、それは逆説的に「自分のことをカッコイイと思っていないから」です。

そこがやはりやよいが他の4人と大きく異なる点です。みゆきとあかねが「みんなの笑顔を守りたい」というマクロな視点からプリキュアになり、なおとれいかが「家族の絆はバラバラになんかならない!」「一生懸命さを馬鹿にするのは許せない!」という自らのミクロな価値観を実行するための手段としてプリキュアになったのに対し(そういう意味でみゆきたちは昭和ライダー的で、なおたちは平成ライダー的ヒーローと言えるでしょう)、やよいだけは、「自分の努力を認めてくれたみゆきとあかねを守りたい」、という非常に個人的な理由でプリキュアになっています。

つまり、彼女にはプリキュアとして戦う確固たる理由がないんですね。言ってしまえば、「みんなが戦うから」という理由でプリキュアに変身し、「なんとなく」戦っている。だから実際のところ、やよいにとってプリキュアというのは、みゆきたちと一緒にいるための理由付けに過ぎないんじゃないかと僕は思うんです。

秘密の共有というのは人間関係の構築において非常に強いファクターです。なぜかといえば、その関係にあるどちらの人間もその秘密を他者に漏らすことができないからです。『自分たちしか知らない』秘密があるとき、人はその相手に対して普通よりもより親密さを感じるものです。

だから、やよいにとってプリキュアに変身するということは、みゆきたちとの絆、そして自分の居場所の確認作業のようなものなんじゃないでしょうか。

やよいはみゆきたちに出会うまで、「自分はこういう人間なんだ」とうまく人に示すことはできずに過ごしてきました。それどころか、彼女の中には様々なことに対する深いコンプレックスがあって、彼女は何かにつけて人より劣っている自分を責める傾向にあります。実際、お絵かきについても「子どもっぽい」と否定的な見方をしていました。

ヒーローに憧れるのは、ブラウン管に映った自分の姿が、あまりにもその勇姿とかけ離れているからです。自分もアニメや漫画のヒーローのように強くて、優しくて、かっこ良くて、皆に好かれるような存在になりたい。だけど、現実はそううまくはいかない。運動神経は悪いし、勉強も苦手。怖がりで、引っ込み思案で、人に優しくしたくても、できない。可愛く、かっこ良くなりたいけど、なれない。

やや穿った見方であることは認めますが、僕は黄瀬やよいというのはそういう子なんだと思うんです。

だから、みゆきたちに自分の絵を褒められたとき、彼女はものすごく嬉しかったんだろうなぁ。
コンプレックスだった自分の子供っぽさも、すごいと認めてくれる友だちがいる。それも、ひとりではなく、4人も。
それはきっと、彼女にとってこの上なく幸せなことでしょう。

だからこそ。

彼女はみゆきたちに嫌われたくないんだろうなぁ、とも思うんです。
プリキュアになったからといって、もともと彼女が抱えていたコンプレックスが全て解決されたわけではありません。
それどころか、プリキュアとして戦っていくうえで、むしろ彼女は足手まといにさえなる可能性があるのです。

もし、自分のせいで戦いに負けたら。
もし、自分が疎まれていたとしたら。

そう考えるだけで彼女は気が気でないでしょう。「プリキュア」という秘密をきっかけにしてスタートした関係である以上、自分が「プリキュア」でなくなったら、自分の居場所はここにはないのかもしれない。みゆきたちは、「キュアピース」としての自分を必要としているだけであって、「黄瀬やよい」という人間は必要としていないのかもしれない。

そういう考えが頭に浮かべばこそ、彼女はグループの中でも、あまり積極的になれないんじゃないでしょうか。
これが僕が感じた、彼女が「あざとい」と言われる描かれ方をされている理由です。

恐らくやよいは「嫌われないように」とまではいかないまでも、出来るだけ彼女たちにいい印象を与えるように振舞っているように思えます。誰だって、わざわざ自分を人に悪く見せたりしたいわけはありません。できることなら、可愛い、カッコイイ自分を人に見せたいと思うのが普通です。それも、見ず知らずの人ではなくて、自分の好きな人ならなおさら。

やよいにとってみゆきたちは(おそらく)生まれて初めて自分を受け入れてくれた、認めてくれた特別な存在です。だからこそ、できることならみゆきたちとずっと一緒にいたいし、自分を好きでいてほしい。そう思うのは、まぁ自然な考えですよね。

9話の「うそ〜!? やよいちゃんが転校!?」は彼女が軽い気持ちで言った冗談がいつのまにか収集が付かなくなってどんどん大変なことになっていくという話でしたが、そこで描かれているのはやよい個人の葛藤です。「やよいが嘘をついている」という情報はやよいと視聴者しか知らない情報で、みゆきたちは構造的にやよいの事情を知らないまま物語が進みます。つまり、この話はいつもの回のように「誰か一人にフォーカスして話を作る」という回ではなくて、「やよいのための話作り」になっています。

その内容もじつによく出来ていて、悪気なく(むしろみんなを楽しませようとして)ついた嘘のせいでどんどん自分が追い詰められていくというものでした。その過程で、やよいは何度も自分のついた嘘について告白しようとしますが、何となくそれができません。その理由は、他でもなく、「自分が嘘を付いていたということがみんなに知られたら嫌われてしまうかもしれないから」です。嘘を付き続けるのは当然ながら良いことではありません。というか、できません。しかし、一方でついてしまった嘘を「ごめん、あれ嘘でした」と言うのも同じくらい大変な作業です。なぜかといえば、それを言ったときに「じゃあなんで嘘ついたの? 馬鹿なの?」と言われて当然だからです。だからやよいを苦しめたその葛藤は、誰しも経験したことがあるからこそ、リアリティがあります。

最終的に彼女は自分の嘘をみゆきたちに告白して許されるのですが、それって実はすごいことなんですよね。どうしてかといえば、色々な要因があったとはいえ、やよいのついた嘘によってみゆきたちは少なからず迷惑を被ったからです。にも関わらず、みゆきたちは彼女を笑って許します。僕はこういうところで「ああ、みゆきちゃんすげーな」と思うんですよね。

みゆきちゃんのすごいところは、「〇〇だから友だちである」という論理ではなく、「友だちだから〇〇である」という論理で動いているところ。勘違いしないで欲しいのですが、これは「〇〇だから友だちある。ゆえに△△である」という理論ではありません。つまり、彼女にとって友だちであるということは何の条件もなく成立するもので、その上で「友だちにはこうする」という価値観を実行できる。しかも、彼女はそれを相手に求めません。『仮面ライダーフォーゼ』の如月弦太郎も、そういう系譜にいるキャラクターですね。

思春期の少年少女の人間関係というものは、僕たちが想像するよりも遥かに脆く、可逆的で、とても利己的なものだったりします。とくにクラスという特殊な空間においては人間関係がそのままクラスにおける力と直結するので、実際、非常にドロドロとしていたりします。(まぁ、これは僕の経験論ですけど)だから、もしクラスで「あいつは嘘つきだ」と言われる人間がいれば、当人が嫌われるのはもちろんのこと、「嘘つきと言われているやつと付き合っていたら自分まで嫌われるかもしれない」という暗黙の圧力が働くんです。いわゆる「友だち地獄」というヤツですね。

そして、その圧力に真っ先に屈してしまうのが、黄瀬やよいという人間のもつ弱さなんですよね。もちろん、彼女が悪いということではなくて、彼女は生まれながらにそういう救いようのない弱さを抱えているんです。印象論ですが、やよいだけではなく、あかねやなお、れいかもまた、そういう一般的な「弱さ」を抱えている人間だと思うんです。あくまで想像ですけれど。

でも、みゆきにはその「弱さ」をはねのけるだけの心の強さがあるように感じます。

彼女にどういうバックグラウンドがあるのかは分からないですが、彼女にとって友だちとの絆は何にも代えがたい宝物なんですよね。だからこそ、友だちでいることに理由なんて求めないし、周囲の環境に流されることなく、あくまで個人としてその相手との関係を考える。だからやよいが嘘をついていたことを告白したときも、笑って許せたんだと思うんです。もし、あの場にみゆきがいなかったら、もっと冷たい反応が帰ってきていたんじゃないかなぁ。そういう意味で、みゆきはヒーロー足りえるんです。

ネット上では彼女の見た目ばかり取りざたされて人気が出ていますが、キャラクターの本質はそういう表面的なところではありません。
アニメや漫画のキャラクターというのは、あくまで記号的に可愛く、かっこ良い見た目をしているだけであって、その本質はあくまでその人間性です。僕がいつも考えるのはそのキャラクターが現実にいたとして、自分ならどう思うだろうか? という点です。憧れたり、共感したり、友だちになりたいと思えるだろうか? もしそう思えたのであれば、彼ら/彼女らは間違いなく生きています。

僕がやよいちゃんを魅力的だと感じるのは、彼女が抱える弱さがこの上なく人間臭いからです。実際、彼女は僕たちが想像するよりもずっと身近な存在なんですよ。僕自身も含めて、彼女の抱える弱さを持った人間は、この現実世界にたくさんいるし、自らの弱さとの葛藤を続けているはずです。

だからこそ、この物語は(幾多の)黄瀬やよいのためにあるんだろうな、と思うんです。
あかねやなお、れいかは実際のところ、みゆきたちと出会わなくても普通に楽しく生きていけたでしょう。
でも、やよいはみゆきたちと出会わなかったらずーっと一人で絵を書き続けているだけだったと思うんです。
彼女が脚本的に優遇されているのは、恐らくそういう理由からです。

やよいにとっては、「友だち」も「絆」も、「何かを一緒にやり遂げる」ということも、すべてが初めての体験です。
そういう彼女のピュアなセンス・オブ・ワンダーを通して、シリーズの大きなテーマを描いているのは、非常に興味深いです。

もし機会があれば、彼女の視点から物語を捉えてみると、色々な発見があるのかもしれません。
長々と書いてきましたが、要は「スマプリ面白いからみんな見ようぜ!」ってことですね。
プリキュアシリーズで一番好きなのはもちろんハトプリなんですが、スマプリも負けず劣らず面白いです。

次はれいかさんについて何か書くかも。彼女も魅力的なキャラクターですからね。

それじゃまた。

そして少女は大人になる〜映画『けいおん!』感想


まえおき

いやー最近ホントすごいっすね。
何がすごいって奥さん、映画『けいおん!』ですよ。

間違いなくこの冬邦画No1ヒットですよ。
同時期に封切られたスティーブン・スピルバーグ監督の『タンタンの冒険 *1 』を押さえて堂々の1位なんてニュースもききますね。

閑話休題
本エントリーはタイトルどおり映画『けいおん!』の感想文です。本題に入りましょう。

えーっと。
僕はまず公開初日に新宿で19:30の回を見たのですが、もう超満員でしたね。
保険を兼ねて16:00くらいに予約しておいて大正解でした。
それで会場が始まる時間になると改札口には黒山の人だかりが。
入るのに苦労しました。
我らがけいおん厨の人たちに加えて。カップルや友だち連れの人たちが多かったのが印象的でした。

あ、え? 僕?
もちろん。紳士たるもの正々堂々1対1の勝負に臨みましたがなにか問題でも?

それで昨日友だちにつきあって2回目を観に行ってきたんですが……
目からウロコが落ちましたね。いやマジで。
1回目みて「まぁこんなもんだよなー」って感想を書く程でもないかな……と思ってたんですが、昨日観直してみて1回目とぜんぜん違う印象をもてました。
端的に言うと。1回目はストーリーを追うだけで精一杯だったんですが、2回目は余裕を持って演出部分を観ることができました。そうして細部を見渡してみると、なるほど確かにこれは素晴らしい作品だなと自信をもって言えるようになりました。

ここから感想になります。
もちろんネタバレになりますのでご注意を!

横顔からみる唯と梓の成長物語

まず僕が1回目から気になっていたのがこれ、横顔の演出です。
全篇を通して、とにかく横顔のカットが多かった。
特に唯の横顔が数多く描かれ、印象的でした。

で。

1回目見たときには「あ〜唯かわええな〜」くらいにしか思えなかったんですが、2回目でハッと気が付いたんですよ。
人の横顔というものは、すべからく大人っぽい、物憂げな印象を与えさせます。「大人びた横顔」なんていいますよね。
だから、執拗に繰り返される唯の横顔は、少なからず彼女の成長を連想させるのです

上の画像はTV版1期第1話の唯の横顔のカットですが、この時唯はまだ軽音部に入部しておらず『部活どうしようかな〜』とぽけーっとしています。この表情からみて取れるとおり、この時点(1話)で唯は律をして「テンポの悪いドジっ娘」と言わしめているので、確かに納得です。

そして今度は同じく1話の後半パート、澪・律・紬の3人が演奏する「翼をください」を聴いたあとの唯の横顔です。
もう全然違いますね! きらっきらしてますね!
この2つの画像だけでも『けいおん!』を語れると思います。

ですが、劇場版では唯はこのどちらでもない“もうふたつ”の横顔を見せてくれます。
当然参考画像はないのですが…それがどういう横顔かというと、「梓への曲を考えているときの顔」なんですね。

映画の始まりで梓を除く軽音部の面々は「卒業旅行に行こう!」という計画と、「梓に何かプレゼントをあげよう!」という二つの計画を立てます。前者は梓を巻き込んで進行しますが、後者は一貫して秘密に進められます。全篇を通して梓:四人という一見“仲間はずれ”な構図が出来上がるわけです。

これは結構象徴的でして、2年間一緒に頑張ってきた彼女たちの根本的な立ち位置の差が浮き彫りになったわけですね。巷で「あずにゃんぼっち問題」と言われている構造です。まぁ、これはもうホントにかっこわらいなんですが、とにかく「卒業」というタイムリミットを前にして初めて彼女たち5人が対峙した立場の違いです。そして、この「梓への曲を作る」という課題が本作品のメインテーマとなっており、作品中で一本筋が通った“物語”になっています。

さて、無事日本を発った軽音部はロンドンでてんやわんやするのですが、その道中も3年生4人は曲作りに奔走します。
その中でも唯は言いだしっぺなのでより真剣に考えて、ふとしては物思いに耽るのです。
そのとき唯が見せる横顔が、TV版の彼女が見せたことのないような、とっても大人びた表情なんです。

“可愛い”といより“美しい”という言葉がぴったり、というか。
とにかく、TV版の唯が見せたようなあどけなさが残る少女の顔ではなく、大人の女性の横顔に見えるのです。

全体としてかなり唯のモノローグが多く、唯が一人の人間として(TV版はあまりにも小動物ちっくすぎるw)悩み、考えるという描写が、唯の“大人っぽさ”を象徴づけています。もちろん、完全に大人というわけではなく、行きの飛行機の機内で梓に書きかけの歌詞を見られて

唯「……何か見た?」
梓「いえ……」
唯「そっか……ならいいんだ」

というやりとりをするときの空気といったらw
唯がもつ子供っぽい魅力がよく表れています。

そして唯は結局歌詞を完成させられないまま帰国の途につきます。
ですが、ロンドンの旅行中、最も印象的なのが最終日の野外イベントでの演奏です。

飛行機の時間が迫り、いよいよ最後の曲となった「ごはんはおかず」の演奏中、唯は観客の中に小さな赤ちゃんの姿を見つけます。そのまさに天使のような姿を目の当たりにした唯ははりきって、演奏の最後にアドリブ演奏をねじ込みます。そうしてライブは終わるのですが、空港に向かって走る道中、律にそのことについてたしなめられた唯は思わずこう言います。

唯「ごめ〜ん! だって赤ちゃん可愛かったんだもん〜。カッコイイとこ見せたくなっちゃって〜」

そしてロンドン編は唐突に終りを迎え、物語は最後の卒業式編に移ります。
卒業式編はTV版2期24話のサイドストーリーとなっていて、TV版本編では卒業式とさわ子先生へのプレゼントがフォーカスされましたが、映画版ではそれはカットされ、その代わりにクラス全体を巻き込んだ「卒業ライブ」と、映画全体で取り扱ってきた「梓へのプレゼント」……すなわ『天使にふれたよ』の制作過程のクローズアップがなされます。

「卒業ライブ」はまた『けいおん!』を語る上で外せないポイントなのですが……今回は残念ながら文字の都合上カットします。
機会があれば、是非。

「卒業ライブ」が終わると、いよいよ物語は佳境。
最後の登校日を終え、梓と4人は一旦のお別れを迎えます。
未だに唯たちの目論見が何なのか見破れず、訝しがる梓をよそに、4人は『天使にふれたよ』の仕上げに入ります。紬の作った曲に4人全員が自分なりの歌詞をつけ、いよいよ卒業式の前日に完成します。

そして迎えた卒業式前日――。
TV版の24話で朝遅刻した唯はこんな言い訳をしていました。

唯「ごめ〜ん! 朝はやく起きてギー太を触ってたら遅くなっちゃて」

本編ではそれについて説明はされないのですが、映画版ではこれは実は唯が『天使にふれたよ』の歌詞の一部分……

でもね、会えたよ! すてきな天使に

というサビの部分の歌詞を最後まで考えていたから、ということになっています。
もともと完成した曲では「天使に」の部分が「君に」になっていて、唯はこの部分がどうしてもしっくりこず、色々変えて歌ってみるのですが納得がいきません。そうこうしている間に時間はきてしまいます。

卒業式を終えた4人は梓よりも先に部室に向かい、準備を整えます。
するといつもは空いていなかった部室の隣にある屋上の扉が開いていることに気が付きます。
高校生活最後のひととき、そして梓へのプレゼントという最後の仕事を前に、唯たちは声にならない思いを叫びます。
このシーンが僕本当に好きで、思わず泣いてしまいそうになりました。
「卒業式の日に始めて開いた扉」というのも泣かせる演出ですよね。

真っ白な薄光が指す幻想的な雰囲気のなかで、4人は3年間の思い出を振り返ります。
このソフトフォーカスがかかった太陽の光の演出は物語前半のゴミ捨てに行くシーンでも観られますが、「いまこの瞬間もまた思い出の中にある」という演出なんでしょうね〜。
そして未だ歌詞の最後の一部分を決めかねていた唯は、梓との思い出からあることを思い出します。

唯「私たちがあずにゃんに最初に演奏した曲って、『つばさをください』だったんだよね。(中略)だから……あずにゃんが私たちに翼をくれたんだよ。あずにゃんは私たちに翼をくれた、天使なんだよ」

そう、唯はここにきてやっと気がついたのです。
軽音部の一員でも、放課後ティータイムの一メンバーでもない、中野梓」というたった一人の“後輩”の存在を、です。

それまで唯にとって梓は仲の良い「友だち」であったり、優秀な「メンバー」ではあったことでしょう。
いつも練習しないことをたしなめられたり、「唯先輩は私がいないとだめなんだから」と心配をかけたり……。

ですが、唯は卒業という別れを前にしてやっと梓という一人の大切な“後輩”の存在に気がつくのです。
唯が始終浮かべていた大人びた横顔の正体……。
それは、自分と梓の関係を“先輩”と“後輩”として認識し始めていたということなのです。
自分という存在が梓とまったく対等な関係でないということを自覚し、平沢唯という“先輩”としての自分を意識したのです。
それまで好き勝手にゆるゆると過ごしていた唯が、始めて他人のために何かを為そうと立ち上がった……これが映画『けいおん!』で描きたかったテーマなんだと思います。
ロンドンのライブで唯が赤ちゃんにカッコイイところを見せたかった、というのはここに繋がると思うんですよね。


そして部室にあらわれた梓に、4人は『天使にふれたよ』をプレゼントします。
ここからTV版と劇場版がシンクロして、物語はクライマックスに向かいます。

TV版だとここで梓が泣き出してしまい、そんな梓に唯は優しく手を差し伸べます。

そして演奏が始まり……


二人は向かい合います。
この唯の横顔は、今まで載せた3枚のどれとも違う表情をしています。
この横顔は、まさに成長した大人の平沢唯そのもの。
梓という子供に優しく語りかける、年上の“お姉さん”なんです。

一方の梓も、いままで見たことのないような唯の一面を垣間見て自分がずっと“後輩”だったんだということに気が付き、それまで思いも及ばなかった“後輩”としての自分を意識させられたのです。
ああ、叶わないな――と。
やっぱり先輩はすごいな――と。


だからこそ言わせてもらいます。
劇場版『けいおん!』の主人公は梓だった、と。

周知のとおり、4人はこのあと同じ大学に進学し、いままでと同じ日常がまた続いていくことになります。
それを「幻想だ」と批判することももちろんいいでしょう。
卒業、そして離別をきちんと描くことでこそ浮かぶ瀬もあると。

ですが、それはあくまで4人にとっての話なのです。
この演奏が終わって、4人が卒業してしまったら、梓にとっての日常は失われてしまう。
梓にとって“卒業”は確かに悲しいお別れなのです。
一方の唯たちにはお別れの悲壮感はありません。
もちろん、それは4人一緒の大学に進学が決まっているということもあるのかもしれません。
ですが僕には、唯たちが歌う『天使にふれたよ』こそが、本当の意味で一人ぼっちでお別れをしなければならない梓への、精一杯の励ましの言葉だと思うのです。
だからこそこのシーンは感動を誘うのです。

でもね、会えたよ! すてきな天使に
卒業は終わりじゃない
これからも仲間だから
一緒の写真たち
おそろいのキーホルダー
いつまでも輝いてる
ずっと その笑顔ありがとう

確かにこの結末は唯たちの日常の“卒業”ではないのかもしれません。
ですが、確かに梓にとっての掛け替えのない思い出の終わりなのです。
そして、僕たち視聴者との思い出の終わりでもあるのです。


演奏が終わった後、カメラは外からのカットに代わります。
ゆっくりフェードアウトしていくカメラに映っているのは左右2つの窓から見える、梓と唯の姿。
“卒業”に引き裂かれる、二人の姿です。

だからこそ、僕はこう思うんです。
アニメ『けいおん!』は平沢唯の成長物語であり、その主人公は中野梓だったと。
音楽が彼女たちを直接成長させたわけでは、もちろんないでしょう。
ですが、彼女たちは音楽を通して間違いなく成長して、大人になった――そう思うのです。

TV版では見えにくかったこの作品が描きたかったテーマこそまさにこれです。
青春という、冗談みたいにきらきらした思い出をしっかりと描くこと。
少女たちが大人になる過程をしっかりと描くこと。

“卒業”という不可避の離別を、いかにして描くか?
もちろん、青春が永遠につづくことはありません。
だからこそ「大学編は蛇足」という指摘もなりたちましょう。

ですが、スタッフはそれにかなり自覚的だったと僕は思うのです。
映画の最初のシーン、目覚まし時計の「チッチッチッチッ」という音から始まる演出はTV版1期第1話へのオマージュですが、TV版のそれが「さあ始まりますよ!」というスタートの演出だとすれば、映画版のそれは「もうすぐ終わってしまう」というタイムリミットの演出です。

この日常は確かに永遠じゃない。
それはきっと“ぬるま湯”という幻想なのかもしれない。
それでも、いまこの瞬間の思い出は確かに永遠なんだ!
……そういう彼女たちのきらめきを、僕は感じられたように思えるのです。


最後に。
観に行ってない人は今すぐ観に行くといいよ!!

恋人、友達、先輩、後輩……永遠でないかもしれないけれど、今たしかにキラキラした日常を一緒に過ごしている大切な人たちと是非観に行ってほしいです。
少なくとも、TV版と劇場版ではまったく違う作品に仕上がっていますよ!
……あ〜あ、僕ももう1回くらい観に行こうかなぁ?


それでは!

*1:余談ですが『タンタンの冒険』も凄い面白かったですよ。全篇フルCGアニメーションながらフルモーションキャプチャで制作されているので、動きが本当にリアル。日常シーンは実写とみまごうばかりのリアリティでしたね。それに比べてアクションシーンの素晴らしさといったら! 遠近感や物理演算がフルに有効活用できる3DCGならではの迫力でした。「ああ、なるほどこれは確かに実写はオワコンだな」と言わざるをえませんでしたね。特に物語の後半、カラブジャンの港町でタンタンが隼を追うシーンは圧巻の一言。是非観ることをオススメします。僕は新宿のピカデリーで公開初日に偶然みたのですが、客層がばらばらすぎて面白かったです。

ソーシャルネットワークを観た

最近大学が春休みになって少しは時間に余裕が出てきたのでここぞとばかりにブログを書いてみたりする。

…というわけで観てきました。『ソーシャルネットワーク』。
場所は新高島のTOHOシネマズ109。僕が県内で映画を観るときは大体ここです。都内は新宿のピカデリーかバルト9

感想をつらつら書いていく前にこの映画を一言で表すと…

”え?もう終わり?”

ですかね。んー、いや、どうだろ。
つまり、この映画は上映時間2時間15分とまぁ洋画なら普通くらいの長さなんですが、時間が経つのが気にならないんです。

僕は邦画なんかを観ていても、上映中に何度か腕時計に目が行ってしまうんですが、この映画はそれが一度もなかった。
こんな映画は久しぶりです。(まぁ腕時計は故障中でしてなかったんですが)

今年の頭にこの映画の原作小説

facebook

facebook

を冒頭だけぱらぱらと読んでいて、どうやらアメリカの大学には「クラブ」なるものがあるらしいと言う前知識だけはついたのですが、
そんなに面白そうでもなかったので当然のように積読いき。

その後、同じFacebookに関連した本で、小説でなく、ルポタージュ的な

フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)

フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)

こちらの本を読みはじめた。
まだ読み終わっていない(なにしろ500ページ以上あるうえ、異様に細かい)のだけれども、こちらは上の小説に比べてとても面白く読めている。

と、いうのも実話を元にしたフィクションである小説版に対して、こちらはマスコミ嫌いのマーク・ザッカーバーグの信頼を唯一勝ち得たと紹介されている
デビッド・カークパトリック記者が、ザッカーバーグ自身に対して綿密な取材を行ったものをもとに構成されており、Facebookの創業秘話が事細かに語られていて、とても面白い。(少々細かすぎるが)

ソーシャルネットワーク』の製作に関して、Facebook側は一切協力していないらしく、けっこうエドゥワルド・サヴェリン側に寄った作られ方をされています。
そういう意味で、映画が描く人間模様がほとんど挟まらないこの本は、映画を観るにあたって是非オススメする。
映画の中ではFacebook自体の開発秘話や具体的な出来事がほとんど語られないので、この本を読んでおくと「ああ、あの時こんなことおこってたのね」という感じで見ることができるのでより理解が深まります。逆に僕も読まないで観にいってたらちんぷんかんぷんだったやもしれぬ。

映画との相違点を挙げると、映画ではマークはFacemashを作り、ハーバードの回線をパンクさせたとなっていますが、実際にパンクしたのはマークのパソコンの方だとか。ラップトップのPCのローカルサーバーで運用した結果ですから、そちらの方が自然ですね。あとは学生の写真を集めるためにハッキングまがいのことをしたように描かれていますが、実際は普通にWebサイトから拝借したり、寮に忍び込んだりして割と地道に集めた…とか。

まぁとにかく脚色されていない、ありのまま(あくまでマーク側の視点だが)のFacebook創設秘話が語られているので、こちらは是非オススメと言うことで。

と、少し脱線しかけましたが、映画の方は、本当にいい映画でした。
とにかくテンポがいい。映画のつくりとしては、マークが2003年から2004年にかけてFacebookを開発し、成長させていた時代と、現代、マークが抱える2つの訴訟の調停場面が行き来するものとなっています。なので会話劇がほとんどなのですが、この会話がまた巧い。演技をしているのかと見まごうばかりに自然な会話の応酬。

あとは、ハーバード、というかアメリカのエリート主義みたいなものがよく分かる作品でもありましたねぇ。
この作品で女性はほとんどといって良い程大きな役割をなしていないのですが、それがとてもアメリカっぽい。
出てくる女出てくる女すべてが頭の軽そうに描かれている。成功=金、女、名声という構造が見え隠れします。

良い意味でも悪い意味でもFacebookを含め、GoogleYahoo!! などITサービスがアメリカから生まれた理由がなんとなく分かりますね。
ただ、Facebookが他のITベンチャーと異なり、シリコンバレーから生まれなかった(…と言えるのかは微妙だけども)というのは面白いですね。

最後に気になった点がひとつ。

”日本語字幕これでいいのか?”

僕はあまり英語が得意でないのですが、マーク達が交わす(マークは早口すぎて聞き取れなかったけど)会話くらいはなんとか聞き取れるわけです。
それにしてもまぁニュアンスは伝わるけど、あまりも翻訳しすぎてないか?と気になりました。(思いつくところだと「...like myspace and friendstar」というセリフが「マイスペースその他のように...」となっていたりとか。)

まぁそんなことは別にどうでもいいことで、この映画はとにかく一見の価値ある映画だということです。
まだ見ていない皆さんは、是非。

アニメの絵コンテを取り巻くいろいろな現状

まずはこれを見てほしい。

アニメの絵コンテはその作家の個性がにじみ出てて面白いな
http://blog.esuteru.com/archives/2252011.html


実はここ数ヶ月授業という名目でアニメの絵コンテについて調べ物をしていたので、こういうスレッドをみると「ふふん」とうれしくなる。

そもそも絵コンテってなんやねん

…という人もいると思うので一応解説。アニメを観ている人でも意外と原画と絵コンテを間違えている人もいるので。まずは例によってwikipedieaから導入分を引用。

絵コンテ(えコンテ、continuity)は、映画、アニメ、テレビドラマ、CM、ミュージックビデオなどの映像作品の撮影前に用意されるイラストによる表であり、映像の設計図と言えるものである。


簡単にいえば、映像作品を作るときに、撮影に入る前にほしい映像をカットごとに書きだして、4コマ漫画のようにした資料のことですね。コンテとは英語でcontinuity、つまり絵の連続という事になります。アニメや映像が1秒24コマの絵の連続と考えれば、それのもう一段階下、ということになりますね。

ちなみに、原画は絵コンテより後の作業工程で、絵コンテをもとにもう1段階実際のアニメーションのカットに近くなります。原画は後に彩色し、セル画のもとになるので、絵コンテよりかなり丁寧に描かれているのが特徴と言えます。しかし、この段階ではまだキャラクターたちは動きません。絵コンテ・原画はアニメーションの起点となるカットをピックアップしているため、1枚1枚違うカットが描かれています。アニメの制作ドキュメンタリーなどで、アニメーターの方達が薄い紙をぺらぺらめくりながら作業している姿を観たことのある人はたくさんいらっしゃると思いますが、あれは原画よりさらにあとの「動画」という作業工程で、その作業をしている人を「動画マン」と呼びます。去年の夏にNHKで特集されて話題になった金田伊功さんも動画マンのひとりですね。

余談ですが、よく「アニメーターの賃金が安いから、労働環境を改善しろ!」という意見がよく聞かれますよね。実は、アニメーターの仕事というのは歩合制が一般的で、うまい人ほどページ単価が高く設定されたりするのです。ですから、アニメーターの人たち全てが薄給で過重労働を強いられているという印象は間違いで、売れっ子にもなると年収が1000万円を超える人も珍しくないとか。いずれにせよ、大多数の若手アニメーターの方達が薄給で働いているのは事実なのですが。

さて、アニメ制作について説明していると長くなってしまうので、あとは省力しますが、
アニメのワークフローについては、以下をみるといいでしょう。

アニメはこうやって創られている
http://www.depth-of-field.jp/main/vol006/focus/03_page02.php

意外と手に入らないアニメの絵コンテ

みなさんは先期テレビ放送していたアニメの絵コンテを持っていますか?

一般的にアニメの絵コンテというものが出版物という形で世に出回ることは驚くほどありません。一昨年、細田守監督の「サマーウォーズ」の絵コンテが、劇場公開と同時に発売され、人気を博しましたが、それはとても珍しいことで、細田監督の絵コンテ集を買って、初めて生の絵コンテに触れたという方も多いのではないでしょうか。

細田監督の絵コンテは、他にも「ぼくらのウォーゲーム」「時をかける少女」が出版されており、アニメ評論家の氷川竜介氏も、自身のブログでとりあげています。

http://hikawa.cocolog-nifty.com/data/2007/05/post_6a0b.html

しかし、ジブリなどの有名スタジオが制作したアニメ、しかも劇場版をのぞけば一般に公開されているアニメーションの絵コンテがファンの間に流通することはほぼありません。原画や設定資料、背景などの美術資料はファンブックなどで一部が取り上げられることがありますが、絵コンテを1作品分読むとなると、どこで読めばいいのかわからなくなってしまいます。

某アニメ制作会社の方にメールで質問を行ったところ、以下のような回答をいただきました。

ーーどうして、絵コンテ集を一般に公開・販売しないのでしょうか。


弊社はあくまでも広告代理店や放送局などより依頼を受けて作品を制作するアニメ制作会社であり、作品における産物(脚本、絵コンテ、原画、動画、背景、設定関係の資料、デジタルデータ、等々)についての版権、著作権を有しておりません。よって弊社が独自に絵コンテ集のような出版物を発行
するのは違法行為となります。これはテレビやビデオまたは映画作品でも同じであり、また殆どのアニメ制作会社の作品も完全なオリジナル作品以外は同様の扱いであると理解して下さい。著作権は、原作の出版社、原作者、放送局、広告代理店などが通常の場合有しています。(マルシー表記にある法人や個人)
つまり、現在発行され合法的に販売されている絵コンテは、その権利を有する法人や個人が出しているものなのです。

ーー御社が過去、特に数十年前に制作したアニメーション作品の絵コンテは、現在どのように扱われているのでしょうか。


ある程度古いものまで保管してありますが、処分されているものもあります。
以前は、制作が終わったあとの作品の資料に対する価値観が、現在のように確立されておらず割といい加減なところもあったようです。勿論、コピーといえど勝手に売却するのは違法です。


ーーアニメファンの中には絵コンテを読んでみたいというニーズもあると思うのですが。


極一部のファンの中には欲しい人もいるのでしょうが、多くの場合(大ヒット作以外の作品)、制作や販売のインフラを整備して人件費等をかけてまで販売しても、採算がとれるものは極わずかではないかと個人的には思います。ヒット作とは言え、ドラえもんポケモンなどの視聴者が絵コンテなどの資料を購入するかというと全くそうではないように、作品内容が購買力がある層に、且つ所有欲が満たされるような資料でないと商売的には厳しいという事です。


まず1つ目の質問から。
これに一番驚いたのですが、そもそも絵コンテなどのアニメの制作資料の著作権はアニメ制作会社に帰属していないということ。普通に考えれば製作委員会(おそらく出版社でしょう)にそういった資料の権利が帰属するというのはなんだかおかしな気もしますが、とにかく実制作側がどうこうできる問題でもないみたいです。

次に2つ目の質問。
過去のアニメの絵コンテの取り扱いについて。
制作会社内部でも以前は意外と適当に扱っていたようです。
もう1社から頂いた回答では、その会社ではすでに過去の絵コンテもすべて電子化し、社内でアーカイブ化が済んでいるとのこと。どうやら会社によって違うみたいです。しかし、日本は毎年200を超えるアニメーションを制作し、その総製作時間は2000時間を優に超えます。その中で描かれた絵コンテは推算ですが500,000枚ほどではないかと思われます。それらのほとんどが陽の目を見る機会がないのですが。

最後の質問。
要するに、採算がとれそうにないから売らないということみたいです。
当たり前と言えば当たり前ですが、それでもほしいという層がいるということは気に留めていただいてもいい気がします。その顕著な例を以下に挙げます。

http://ekizo.mandarake.co.jp/auc/itemInfo.do?itemId=03002775930100030


この記事を読んでいる時期によってはこのリンクは有効でないかもしれませんが、上記のリンクはまんだらけが運営するアニメの制作資料のオークションサイトです。そのなかで、昨年放映され大きな反響を呼んだAngel Beats!の最終話?の絵コンテが出品されています。

開始価格は1000円ですが、3日を残して落札価格は3300円。おそらく3日後にはかなりの値段につり上がっていると思います。以前はとある科学の超電磁砲の絵コンテが7000円くらいで落札されていました。

つまり、ほしい人はそれだけの値段をだしても買いたいということです。

しかし、重要なのはそれだけではありません。
上記の回答をよく読んでみてください。”勿論、コピーといえど勝手に売却するのは違法です。 ”とあります。amazonで検索すればすぐに分かることですが、出版社から発売されている絵コンテ集は、ほとんどないのに、一番最初に取り上げたスレッドや、まんだらけオークションでは絵コンテの発売されていないはずの絵コンテが数多く見受けられます。

これはなぜか?
大いに考えられる理由は、制作資料の横流しです。

そもそもこれらの制作資料(おそらくコピーでしょうが)を所持しているのはアニメ制作会社の人たち、もしくは制作に関わった誰かしら以外に考えられません。

ですから、少し前に西尾維新原作の「刀語」の制作資料がwebから流出したというような制作側に過失がない場合をのぞいて、製本されたアニメの絵コンテが一般に出回ることはありえないわけです。アニメ制作会社様の回答にもあるように、著作権を有していない(絵コンテの発売の許諾を著作権者からうけていない)わけですから。

アニメ「刀語」 制作会社が制作資料の流出を公表
http://www.animeanime.biz/all/2010010801/

しかし、現実としてまんだらけだけでなくYahoo!などのオークションサイトでは毎日多くのアニメ作品の絵コンテが落札されている。中には絵コンテだけでなく、複製が困難なセル画もあるようです。これらのC2C取引が違法かどうかは分かりませんが、少なくとも、それらの出所は違法なものがほとんどだ、という事です。アニメ制作会社にコネがあってもらった、くらいなら許されるかもしれませんが、それを転売するという行為は道徳的にどうなんでしょうね。制作スタッフがオークションに出品していれば、それは完全に著作権法違反ですし。

まんだらけの場合は実店舗で買い取ったものをネット上で販売しているというようですが、僕は古物営業法には詳しくないので、今年の頭にまんだらけまんだらけオークションの法律的位置づけを問い合わせたのですが、「電話でなくメールで質問してくれ」と言われたにもかかわらず、依然として返信はきていません。まぁ、そんな暇ないといわれてしまえばそれまでですが。

絵コンテも、立派なコンテンツたりえる

ながながと続けてきましたが、僕が言いたいことは、

「絵コンテも、コンテンツたりえる」

という事です。下書きといって発表しないでおくには実にもったいない。
絵コンテはアニメの元の元となるコアの部分ですし、そのほとんどが監督によって作画されています。上記のスレッドの表題にもなっているとおり、監督の色がとても反映されるコンテンツなのです。アニメの技法というと、原画や動画・彩色などに目が行きがちですが、それらは全て監督の絵コンテに基づいているわけであり、絵コンテはアニメ制作のあらゆる技法が詰まっていると言っても過言ではないわけですね。そういう観点から見れば、監督のファンには垂唾の一品ですし、他のアニメ監督からすれば大きなヒントになりえる訳です。

職人気質が強い日本のアニメ業界において、絵コンテは門外不出の技法と言えるかもしれませんが、日本のアニメ業界全体を考えれば、これからの若い人材の育成が重要になってくるわけですよね。

ですから、絵コンテに限らず、アニメの制作資料というものはもっとオープンにされていいと思います。

これから韓国・台湾・中国などのアジア諸国のアニメ制作技術の台頭を考えれば、アメリカをはじめとする3Dアニメに押される日本の2Dアニメ業界のボトムアップを図るという意味でも、アニメ業界のオープンイノベーションは起こってもいい。

そして、いいアニメがたくさん出てきて、アニメが日本の主要産業になれば、グローバル化に揺れる21世紀の日本も、文化産業大国として十分世界に通用すると、僕は思うんですけどねぇ。

ま、いち大学生がそれなりにアニメ業界の次のビジネスモデルを考えてみても、これくらいしか思いつきませんでした、ということでお別れしたいと思います。ではまた。