E★エブリスタとpixivが見据える、インキュベーションプラットフォームとしてのUGCコミュニティの未来

今年に入ってから、色々コンテンツをとりまく環境がどんどん変化しているという雰囲気を日々肌で感じていたのですが、今回少し時間もできたので、2010年上半期に出てきた新しいコンテンツの在り方を、何回かに分けてご紹介させていただきます。

まずは、今年の春に誕生した新しいUGCメディアから話を始めましょう。

  • E☆エブリスタ



小説や漫画投稿、人気作家には報酬も DeNAとドコモ合弁「E★エブリスタ」

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1004/01/news090.html総合UGCメディア「E★エブリスタ」をグランドオープン
ーケータイ総合雑誌「E★エブリスタプレミアム」を創刊ー

http://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2010/05/31_00.html


これは結構ニュースになってたので知っている方も多いと思います。

E☆エブリスタは今年4月にdocomoDeNAが合弁で立ち上げたサービスです。


個人的に一番驚いたのは、この会社、自社のサービスのことを、おおぴらに「総合UGCメディア」と呼んでいるところなんですね。いままでUGCサービスは山程ありましたが、UGCという言葉自体バズワードなわけで、それを運営側が自称するところがなんか可笑しかったw

  • 動き始めた「ネット発リアルへ」

さて、サービス面の解説にうつります。


エブリスタは、他のUGCサービスと同じようにユーザーが作品を投稿し、ユーザー間でそれらを共有するサービスとなっています。


とまぁ、ここまでは今までネットの藻屑に消えていった数多くの投稿型サイトと変わらないんですが、エブリスタが新しかったのは、”UGCサイトでありながら、金銭的インセンティブを堂々とアピールした点”です。


エブリスタは、開設当初から、「エブリスタ小説大賞」というコンペティションを開催することを銘打ち、その賞金にかなりの金額を提示しました。参加表明をして、エブリスタ内に自分の作品(ここでは小説)を投稿すると、審査の結果によって、賞金と書籍化(冬幻舎)がなされるようです。

僕はこういった、ネットで活動しているクリエータの活動をリアルへコンバートさせる動きのことを「ネット発、リアルへ」と呼んでいるんですが、こういった動きは、他のUGCサービスでも生まれてきているらしく、ご存じイラスト投稿サービス「pixiv」でも、こういったコンペは定期的に行われていて、今現在だと講談社主催のイラストコンテストが行われているようです。



ですが、両者は動きとしては似ているんですが、やはりベクトルが異なっています。どういうことかというと、前述の通りエブリスタが賞金(=金銭的インセンティブ)を大きく前面に打ち出しているのに対して、pixivの方はそうではないですよね。イベントの要項に目を通してみても、賞金とか賞品についての記述はまるで見受けられなくて、実際『何のイベントなんだ』と思うところもあったり(笑)

こういうところに、”お絵描き”という文化、そしてその担い手である”作者”という存在を本当に大事にしているpixivの理念が表れていますよね。


…とか言ってるうちに、つい先日pixivが小説投稿機能を実装するということで話題になりました。


pixivが小説投稿を始めるにあたり、ざっとサービス概要を眺めてみたのですが、これが結構面白い。


小説の投稿・閲覧方法などはご存じの方も多いと思いますが、僕が注目したのは、pixivもエブリスタと同様に出版社と提携して小説大賞を開催するという点です。エブリスタと異なり、pixivでは独立のコンペティションを行うのではなく、角川が運営する小説大賞の応募がpixivでも可能、という形のようです。

  • 次世代UGCコミュニティはクリエータの為にどうあるべきか


これをみて、次世代のUGCサービスのカタチの1つが定まってきたな、という印象を受けました。


「ネットで活動するクリエーターを、いかに”リアルへ”送り出すか」


これがAIR CONTENTSの大きなテーマだった訳ですが、今まではやはり「ネットに本当に優れたコンテンツなんてあるわけない」という意見がどうしても幅をきかせていたのもまた事実です。


しかしながら、UGCの本質は”コンテンツ”であり、最も価値があるのはやはりその作品自体なんだと思うんです。優れた作品には、優れた才能と、制作に費やされた膨大な時間があるわけで、そういう作品は、もっと今より正当な形で評価されるべきです。


だからこそ、「ネット発、リアルへ」というテーマにおける”正当な評価手段”として、エブリスタ、pixivの動きはとても価値があるんです。


島宇宙と揶揄されてきたネットに漂うコンテンツを、拾い上げて、商業化の手伝いをする。


そういう、インキュベーション的な発想が、UGCシーンに立ち現れてきたことが僕はとても嬉しいんです。


今まで、UGCサイトといえば、個人が趣味の範囲で作成した作品を無料で公開し、大勢で共有するという目的が主流で、運営側も、そのコミュニティにおけるコミュニケーションにどのような価値を付加させていくか、ということに重きがおかれていたわけです。しかし、これからは、そういった側面とともに、個人が「ネット発、リアルへ」の道を容易に進むことができるアーキテクチャがどんどん出来上がってきて、「あのサイトで投稿していれば、自分もプロになれるかもしれない」という意識がネット上で醸成していけば、CoA(プロとしての活動を目標にUGCサイトに自分の作品を投稿している人たち)にとって大きなインセンティブになると同時に、出版社・編集者中心の”売れる”コンテンツ産業も、どんどん多様性が溢れるようになって、大人気至上主義と対立する「持続可能なロングテール型コンテンツビジネス」が可能になるかもしれない。


それが僕はとても楽しみなんですよね。無名の素人が、ネットの無料コンテンツを通じて世界をあっと驚かせることが容易な世界。その未来を先導するのが、これからのUGCサイトの在り方だと、今回の件で実感しました。


※追記:これを書いている途中に、pixivが初めての独立で新人賞型のイラスト大賞「P-1グランプリ」を開催すると発表しました。

そんな感じで今回は終わります。次回は「ネット発、リアルへ」のもう一つの可能性を見せてくれたネットコンテンツ配信の新しい在り方を開拓した、「nau」について書いていきたいと思います。

CGMの現在と未来に行ってきたよ!後編:パネルディスカッション「日本型CGMの海外進出」「N次創作を前提としたコンテンツプラットフォーム作り」


今回は後半のお二人のお話をご紹介する予定でしたが、こちらの都合により記事の編成を変更してお送りしています。


えー、恋塚さんと濱野さんのお話はとても分かりやすかったのですが、公開講座ということもあって若干内容が一般向けでしたので、改めてご紹介をする必要もないかな、と個人的に判断しました。


それより、その後のパネルディスカッションの方が興味深かったのでご紹介したいと思います。


第一のテーマは「日本型CGMの海外進出」


後藤さんや伊藤さんのお話によれば、初音ミクを筆頭とする日本型CGM文化は意外と海外でポジティブに受け入れられているとか。ただ、海外に於いて任天堂がNINTENDOであるように、初音ミクがMIKUとして捉えられたかといえば、そういう事ではなくて、飽くまで『おいおい、日本がまたなんかおもしろいことやってるぜ』的な風潮だったそうです。


まぁそうですよね。UGC文化が“同人活動”の延長にあることは今や常識ですし、そういう日本独特の空気が外国の方々に伝わることは非常に難しいと思います。そもそも、現状どうして日本型CGM文化が斯くの如き顛末を辿ったのかという答えは未だに出ていないわけですし。濱野さんが講演の中で『GCMという考え方は実はまったく新しいモノではなくて、2000年代、インターネットの爆発的普及によりそのインフラが整っただけ』と仰っていましたが、それは飽くまで社会学的な見地からの分析であって、「なぜ初音ミクが流行ったのか」という現象単位での答えはまだ出ていないんじゃないかなぁ。


「パッケージが可愛かった」「架空の女の子をプロデュースするという発想が新しかった」「ニコニコ動画のおかげ」「vocaloidという技術がそもそも優れていた」「大規模制作から少数制作へという流れにマッチしていた」…。


こうして挙げてみればきりがありません。これら全てが一因だったのかもしれないし、ここに挙がっていない決定的な動因があったのかもしれない。


初音ミク鏡音リン・レン巡音ルカの発売順が逆だったら?」「初音ミクの声優が藤田咲じゃなかったら?」「“みくみくにしてあげる♪”や“メルト”が発表されなかったら?」…。


歴史の中に鱈レバーを夢想したところで何が得られるわけでもありませんが、ともかく日本のGCM文化が何か単一の理由でこういった発展をしてきた、という論調に一石投じてみたりするわけです。


それにしてもCGM文化を牽引してきた名も無き不特定大多数(crowd in cloud)の動向は常にコンテンツプロバイダーの予想の一次元上を行きますね。プロバイダー側の座標空間では消費者の動向を読むことはなかなかどうして難しい。改めて、コンテンツがコモディティ化することはなさそうだなと胸をなで下ろします。


さて、第二の議題は「N次創作を前提としたコンテンツプラットフォーム作り」ですが、簡単に説明してしまえば、『これからは開発段階でCGM展開を視野に入れたサービスがスタンダードになるのか』ということですね。


個人的な意見は『うん』という一言に尽きます。が、まぁこれはそこまで深く突っ込まないでもいいのかな。


また、そういったコンテンツプラットフォーム制作につけて濱野さんが「マイクロペイメントの導入」を指摘していたのが印象的でした。「マイクロペイメント」は拙記事「ゼロ年代最後の日に」でも取り上げているP to P(prosumer to prosumer)の直接課金システム、いわゆる“投げ銭”の事です。濱野さんは『N次創作を前提としたコンテンツプラットフォームを作るならば、プロシューマーへの制作インセンティブも兼ねた上でマイクロペイメントを導入すべきではないか』と指摘。これに対して恋塚さんは『今現在のような、公式チャンネルと一般動画という“プロ”と“アマ”の敷居を取り払い、二者を混在させたサービスにしていくのであれば、肩書上での段階的な“プロ”“アマ”という区別ではなく、コンテンツの滑らかな位置づけとしてマイクロペイメント(金銭的評価)は必要になってくる』(意訳)とコメントしました。


恋塚さんの発言を聞いていて、どこかマイクロペイメントの導入には消極的だなぁという印象を受けたのですが、同氏が『とりあえずは有料会員の月額課金で黒字化の目処が立っている』とも述べているように、どうやらそれは図星かと。それに、濱野さんへの回答も裏を返せば『“プロ”と“アマ”を混在させない限りはマイクロペイメントの導入はありえない』ともとれますし、公式チャンネルに対しての一般動画(=UGC)は飽くまでアマチュアの作品である、という運営側の姿勢も見て取れなくもない。飽くまで私見ですが。


伊藤さんも『CGM文化はある種の社会的規範(親が子を無償で育てるような、ユーザー間の利他意識)の上に成り立ってきたものであるから、次世代の評価システム(制作インセンティブ)を考えるとしても金銭的対価とはまた違ったものを模索していきたい』(意訳)とコメント。


実際のところ、濱野さんのマイクロペイメントの議論自体は特段新しいわけではなくて、数年前からUGCシーンで結構声高に主張されていることです。それでも依然として導入がなされないのは一体どういうことか。


しかし、コンテンツプラットフォームの制作側であるお二人が揃ってマイクロペイメントの導入に難色を示したことは、よくよく考えてみれば自然な反応ではあるんですよね。


まず第一にインフラが整備されていないということ。マイクロペイメントの本質は“投げ銭”です。投げ銭というものを翻って考えてみれば、そこには「小銭は簡単に投げることが出来る」という暗黙の前提があるわけですよね。ポケットからだして、ぽいっと投げることが出来る。そういう心理的、物理的障壁が極めて薄いからこそ“投げ銭”という考え方は活きる。しかし、現状ネット上でそのような「小銭を投げやすい」インフラが整っているかと言えばまったくそうではないですよね。100円の古書を買うのにも、クレジットカードは依然として必要だし、数あるネット電子マネーのアライアンスは目処が立たず、サイトごとに使用可能な通貨が変わる。同じ国内なのにw


つまりは「リアルで煩雑な事柄が手軽に行える」というネットの特性を全く活かせていないんですよね。僕の周りでもクレジットカードを持っていないからamazonで買い物が出来ないと嘆いている友人がいます。もちろん、彼がネットに不慣れだということも否めませんよ。だけど、これからの時代本当にEコマースを主流に持ち上げるのであれば、そういった層こそ取り込んでいかないといけないと感じるのですが。


そういった背景から電子決済のファシリテーションは急務です。そしてリアルのような他社間のアライアンスも必要だと思います。つーかどうせ流行ってねーんだから統合しちまえばいんだうわなにするやめr


第二に、マイクロペイメントの仕組みは企業側にあまり直接的なメリットをもたらさないと言うことです。いくらプロシューマーへの制作インセンティブになって新規参入が増えるとはいえ、実際にお金が動いているのはP to P。その流れによって企業側がなにか利益を得るかと言えばそうではないですよね。その証拠に、今現在ニコニコ動画で導入されているマイクロペイメントらしき機能であるニコニ広告はニコニコポイントでしか出資出来ないし、ニコニコポイントの購入はニコニコ動画でしか出来ない。つまり…まぁいいや。


第三に、マイクロペイメントが導入されたとして、それがどのような働きをするのか実証データが少なすぎるということですよね。UGCシーンが「ネタ型」と「アマチュア型」で埋め尽くされている以上、金銭的対価という責任は、ネタ意識やアマチュア意識では背負いきれない気がしてなりません。


いやはや。またAIR CONTENTSの体系化は振り出しに戻りつつあるわけですね。ただ、マイクロペイメントはまだどこも大手が実装していないから、何とも言えないんですけどね。どこもやらないんなら俺がそのうちやっちゃうよ?


はい。というわけで、三回に分けてお伝えしてきた「CGMの現在と未来」レポートは今回をもって終了ということになります。またこういうイベントに参加する機会があれば、積極的にお伝えしていきたいと思いますので、少しは期待して待っててくださいね!ではでは。

CGMの現在と未来に行ってきたよ!中編:伊藤博之さん「初音ミク as an interface」


今回は初音ミクの発売元でお馴染み、クリプトン・フィーチャーメディア社長の伊藤博之さんのお話を紹介させていただきます。


題名から分かるとおり、伊藤さんは初音ミクをインターフェース、つまり人と人との媒介物だと捉えているようです。インターフェースの分かりやすい例は「言語」でしょうか。つまり、誰にも彼にも使われることが出来る、共有物だそうです。


つまり、N次創作でいう上流というか源流たる一次創作作品の事を指しているんだと思います。初音ミクというソフトウェアのことではなくて、歌声合成機能をも含めたキャラクターとしての初音ミクのことでしょうね。


そして、伊藤さんは現行の著作権法はこの初音ミクのインターフェース性を阻害するものだとも述べています。


そもそも著作権とは、「他人が作った作品を無断で使用してはいけない」という考えの基に制定されており、著作権法が制定されるまでは、全ての著作物は原則として自由に使用することが出来たそうです。そして、一旦著作権法が改正され、全ての著作物が無断利用が出来なくなり、現在はその上で著作者の許諾無しに利用できる範囲を制定し直したとか。


しかし、初音ミクをはじめとするUCGムーブメントは、明らかにN次創作の力に寄るところが大きいことは間違い有りません。そして、その中心にあるのがクリプトンが権利を所有している「初音ミク」という商品ですね。それが先ほど紹介した“インターフェース”という考え方に基づいた初音ミクの在り方です。しかし、インターフェース(=N次創作)の基本理念である「誰もが自由に利用できる」という考え方と、「誰にも彼にも勝手に使われては困る」という現行の著作権法の理念は背反します。しかしながら、UGCという新しいムーブメントを利用したマーケティングを行う際に、現行の著作権法は権利者の利益を守るというより、むしろ機会損失を促してしまっているような気がします。


そういうダブルバインドにあって、クリプトンのとった手法はまさにweb3.0的マーケティングケーススタディであると言えます。


それがUGC型コミュニティサイト「ピアプロ」の設立と、それに際しての「PCL(ピアプロ・キャラクター・ライセンス)」の制定です。


PCLは、自社のキャラクター商標の二次利用に際してのガイドラインです。クリプトン側の見解として、『二次創作はファンアートであり、それらをむげにすることはしたくない』そうであり、ガイドラインに従う限り、それらの二次創作作品は権利侵害に当たらないようにした、という訳ですね。そして、ピアプロの役割がそのガイドラインの有効範囲の可視化です。ピアプロはクリプトンが直轄で運営するコミュニティサイトであり、ピアプロ内では権利関係はクリアになっています。


また、ピアプロ内の二次創作作品をN次創作する際は、ピアプロ・リンクという『あなたの作品を元に作品を作りましたよ』という断りを入れることで「創作ツリー」が目に見るようになっています。また、これらは非営利目的(利益を得る目的でなければある程度は有償配布可)でのみの利用が可能となっています。


詳しくは解説動画をご覧下さい。




さて。ここから感想。
著作権法。んー。これからどうなってくんだろう。現行の著作権法では(PCLの範囲外)原著作物に対しての二次創作物の権利は全て現著作権者に帰属するわけでしょ。だから、まぁ言い方は悪いと思うけど、殆どの二次創作物は現著作権者の温情を賜っているだけで、その二次創作著作権は無いに等しいわけですよね。だから、何かにつけて目を反らしているけど、UGCシーンはグレーなことで満ちている。『まぁこれくらいは大丈夫だよね…』という常識に則った判断ですら、法律的には危なかったりする。だから、ネットで自作イラストを無断で利用されて色々問題になることが多々あるけど、それが何かの二次創作だったりすると、権利の帰属とかどうなっているのか、色々とグレーだよね。その作品自体は二次創作者の著作物だし、その作品の意匠は原著作者に帰属するし…。


はっきり言ってこのままなぁなぁにしておくのは後々面倒だと思うけどなぁ。


そういう意味でPCLとピアプロはweb3.0的なんですよね。


今まで、不明瞭だった権利関係を可視化して、著作物の権利帰属率なんかも分かるようになった。クリプトンとしても、お膝元でなら安心して自社商標の二次創作許可を出せる。プロシューマーとしても、自分の作品に変な負い目を追うことなく思い切り創作とコミュニケーションを楽しめる。こういう関係がこれからの理想型だと思う。


これも友達からの受け売りだけど、『二次創作やネタにされたぐらいで原著作物の利権が侵されることはなく、むしろ原著作物の強度、認知度が増すだけ』というのは案外正しいような気がする。二次創作されるっていうことは、その作品のポテンシャルというか潜在的なエンターテイメント性が間違いなくあるっていうことだし、N次創作ツリーの大きさや樹齢はそのまま作品の耐久度や普遍性の証左になる。一種のステイタスですよね。


ジブリ作品なんかが良い例じゃないですか。「天空の城ラピュタ」がテレビで放映される時、2chtwitterでみんなが『バルス!』なんて書き込み合っていますけど、あれは結局“ラピュタ”が皆の間で普遍的な存在だからでしょう。UGCムーブメントでどうして二次創作が主流かといえば、つまりは共通意識の共有に尽きますよね。『自分が観ているこの作品も、みんなが自分と同じ気持ちで観ている』といういわゆる疑似同期感覚、というか碇シンジ君的な『僕は1人じゃない…!』という他者承認の自己的内在があるわけで。「同じ作品を認知している」という事実はコミュニケーションの端緒になるには十分なんですね。だからこそ、傑作と呼ばれるコンテンツは普遍性が強い。誰もが同じ目線で作品を通じたコミュニケーションを営むことが出来る。これって、実は僕の思い描くコンテンツの理想像と重なってるんですよね。


とまぁつまり僕は『コンテンツはコミュニケーションの媒介をしろ』と言いたいんです。コンテンツの本質は「人を楽しませること」でしょう。だったら、作品を通じてのユーザーの交流もコンテンツの仕事の範疇です。特にインターネットが普及していくこれからの時代「どう大勢の人を惹き付けられるか」もコンテンツの重要な要素だと思います。


そういう意味で、これから著作権法の在り方はどんどん議論されていいと思います。全部が全部初音ミクのようにはなれないんだろうけど、企業としてはPCLという選択肢が出来たわけですよね。著作権法もいつまでも第三者目線で事を進めていないで、企業や消費者を鑑みて欲しい。コンテンツは知的財産と読んで名の通り実態がなく、ステレオタイプも存在しないわけだから、それを取り締まる著作権法は常にフレキシブルであるべきなんじゃないかな、と感じます。


さて、次回は恋(恋は異字体)塚昭彦さん(DWANGO)と濱野智史さん(日本技芸)、パネルディスカッション「初音ミクの海外進出」についてお伝えしていきたいと思います。ではでは。

CGMの現在と未来に行ってきたよ!前編:剣持秀紀さん「歌声合成の過去、現在、未来」


http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1003/11/news053.html


http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1003/11/news078.html


さて、具体的な講演内容については、IT Mediaでとても良くまとめられているので上記の記事を参照して下さい。というかプロが書いてるんだから当然っちゃ当然ですが。


さて、結構濃密なお話だったので何回かに分けることにします。今回は一番始め剣持秀紀さん(YAMAHA)のお話を紹介していきます。


剣持さんは僕なんかは普段あまりコミットしないvocaloidの技術的側面を分かりやすく解説していただきました。歌声合成の技術の歴史がまさか半世紀も前に遡るとは思っていませんでした。かつては完全な合成音タイプ(機械音)が主流だったようですが、終着点が人間の声である以上、やはり機械音には限界があり、現在、そして未来はvocaloidなどにみられるサンプリング型の手法が主流となっていくだろうとのことでした。


また、UGCの未来を考えるにあたり、剣持さんは三つの要素の拡大が必要だそうです。


まず、「声のバリエーションの拡大」。


現在、いわゆるUGC型の音楽と言えばJ-POPが主流ですが、これからは、もっと幅広い音楽ジャンルでも歌声合成の技術を活かしたいそうです。確かに私見で申し訳ないのですが、初音ミクの曲調ってなんか似たり寄ったりだったりするんですよねぇ。だからなかなかお気に入りの曲を探すのが難しい。事実、これが参入障壁になってたりもするのでは?


加えて、言語バリエーションの拡大だそうです。ご存じ初音ミクは日本語しか喋られません。巡音ルカは英語もレパートリーにありますが、まだ改良が必要のように思われますし。そうそう、会場で、剣持さんが本邦初公開の音声を聞かせてくれたのですが、それはスペイン語の歌声で、ありきたりの反応かもしれませんが、本当に人間が歌っているようでした。正直初音ミクの日本語の歌より全然自然な歌声でした。なんだろう。言語によって合成しやすいとかしにくいとかというのがあるのかなぁ。それと、歌声から歌声以外への応用も研究中だそうです。普通の発話ではなく、歌声と発話の中間……例えば焼き芋屋さんの『い〜しぃや〜きぃもぉ〜』といったかけ声のような、絶対音感の人が耳にすれば譜面に起こせてしまうような類の声なら、発話よりも簡単に合成できるのではないか、ということでした。


まぁ、確かに歌声以外の合声技術開発は自然な流れですよねぇ。だって、僕たちの知らない間にロボットの開発もめちゃくちゃ発展しているわけですし、いざアトムが出来上がった!っていうときにちゃんと喋るためのソフトが無いなんてこともあり得ますからね。テレビで介護ロボットなんかをみていると、やっぱり発話は拙い。別にゆっくりボイスでもいいのかもしれないけど、日本語は同音異語が多いし、プログラムに文脈を判断させて正しい発音をさせるっていう技術も必要になってくると思う。むしろロボット開発より、合声ソフト開発の方が急務だったりして。これから大学の工学部でもそういう分野が主流になってきたりしてね。


濱野さんも仰っていましたけど、声を張るのが苦手な人のために代弁をソフトに頼むなんて未来も面白いかもしれません。「プレゼン能力?なにそれおいしいの?」的な。


後はまぁ声優のオルタナティブですよね。初音ミクがここまで流行った理由の一つに、自分の作った歌を従順に歌って貰えるっていう個人主義(もしくはただ単に友達が少ない)があるわけでしょ。竜騎士07なんかがこれからのクリエイターのロールモデルというかケーススタディになるのであれば、自らの欲望赴くままに女の子に喋らせられるだなんて、3次元に見切りをつけてらっしゃる紳士諸賢に歓迎されないわけ無いじゃないですか。


閑話休題


以前友達が『アニメは、そのキャラクターが喋っているように見えない。どうしても声優の人となりがちらついて鬱陶しい』なんてアニメファンの人から糾弾されそうなことを宣っていたのですが、まぁ確かに一理あるかなと。たしかに、見た目と設定が違うだけで声は一緒って変な感じですよねぇ。それでも違和感を覚えにくいのは、キャラクターというものが見た目と設定に帰依しているからなんでしょうか。勿論声優さん達の演技力の賜とも言えます。この間友達とカラオケに行ってアフレコなるものをやってみましたが、まぁ酷い酷い。本当に今まで馬鹿にしてきた人達に謝りたくなりましたよ。


そういう意味でも、自分の望んだ声色、声質で自分の望んだ事を喋ってくれる存在はニーズがあるんだろうなぁ。


ただ、僕はそういう流れは好きではありませんけどね。
なんでも楽をしようとしたり、独りよがりになっていたら本当に良いコンテンツなんか作れるわけねーじゃん、というのが僕の意見。


次に「利用場面の拡大」。


今はニコニコ動画ピアプロでのニッチ(オタク層)向けの利用が主流ですが、将来は、オーケストラやライブなどでの利用が増えてもいいんじゃないか、ということでした。


んー…。それはどうかなぁ…。
既存の音楽ジャンルに対応するということではなくて、飽くまでライブでvocaloidを使用するというのはどうにも些末な気がしてならない。ライブの一番の価値はスピーカー越しにしか聴いたことのない音楽、声楽を直に聴くことが出来るという点にあるわけですよね。普通のライブに行って、実際は録音テープに口パクだったらなんか損した気分になるように、わざわざ出向いて打ち込みの音楽を聴くって、なんか意味が薄いような気がするのですが。


それだったら、歌い手(人間)の声を、初音ミク調に変換する技術の方が面白い気がする。初音ミクというか、つまりは変声技術ですよね。またまたカラオケの話なのですが、その機種にたまたま変声機能がついていて、早々に飽きてしまった僕たちは途中から延々それで遊んでいました。そこで感じたことは、『やっぱり異性の声って憧れるよなぁ』ということでした。男なら女声で、女なら男声で歌ってみたいと思う事は誰しもあるはず。だって、普通の声域だったら異性の歌とか原曲のキーで歌えるはずないですよ。女性ボーカル好きな僕としては大いにカラオケの興が削がれてます。


だから、次世代vocaloidは自分の声を誰かの声に似せることが出来るソフトウェアがいいと思います!


ただ、似せられる方はたまったもんじゃないけどね…。


最後に「ユーザー層の拡大」。


初音ミクが大ヒットしたとはいえ、それはニッチなDTM市場でのことであって、既存の音楽シーンを震撼させる程のヒットではなかったというのが本当のところであり、今後は歌声合成の普遍化を目指したい、そうです。


初音ミク騒動のとき、流行にのって買ってみたはいいけど、普通に難しくて放置、という例が結構あったみたいですしね。立ち返れば初音ミクって打ち込みソフトですよ。あのツーテールの可愛い女の子なんてエディット画面のどこにも出てこないんですよ。ミク愛なんかよりもまず第一に、作曲能力がなければ彼女は振り向いてくれません。そう言う意味で彼女は軽い女の子ではないのです。


『わたし、音楽が出来ないおとこのひととはおつきあいできませんっ!』


ってね。ざまぁw


さて、下らない話はさておき、これはこれからのUGCムーブメントに大きく関わってくる問題だといえるでしょう。何かの記事で触れましたが、UGCの、作り手に対しての制作インセンティブとして、「素人でも簡単に作れる」というのがあります。いくらITの発展でテクノロジカル・ディバイドが是正されたとは言え、ずぶの素人がコンテンツを制作できる程甘くはありません。ほんの少しハードルが下がっただけにすぎません。売り手としては一時的なブームで自社商品の売り上げが伸びれば御の字なのかもしれませんが、WEB3.0的マーケティングを見据えれば、そんな牧歌的な体制ではいられないと思います。発売後もまだまだやることはあるのです。これについては次回詳しくご紹介させていただきます。


つまり、ここで重要なのは制作過程のファシリテーションです。
参入障壁を下げることによってさらなるユーザーを獲得するというのは常套手段ではありますが、制作を不特定多数になげうつUGCマーケティングにおいては重要なポイントです。こういう技術的な話には僕は突っ込めないので、僕でも作られるようなソフトウェアを開発して下さいとお願いするばかりです。


ただ、まぁこれもよく言われることですが、技術的ハードルによる参入障壁がコンテンツのクオリティを保証しているということも否定できません。初音ミク文化の隆盛もそういう不文律の下に発展したのかもしれません。でも必ずしもそうとは言えない気がします。例えば絵画。あれって、究極的には鉛筆と紙だけで表現されているという、VFX全盛のハリウッドに比べれば本当に簡素なアートですよね。でも、だからといって下等な表現手法かと言えば、全くそんなことはなくて、むしろ一本の鉛筆の方がコンピューターソフトよりも可能性を秘めているといっても過言ではありません。だから、玉石混淆を厭わないのであれば、ハードルの撤去を断行しても構わないと思います。


さて、次回はクリプトンフィーチャーメディアの伊藤博之さんのお話を個人的な感想と共にお送りしたいと思います。ではでは。

アニメでもマンガでもなく

もう3月だというのに、今日は全国的に季節外れの大雪だった。そういう事情から外出することもはばかられ、僕は一日中部屋にこもって本を読んでいた。そうしているうちに、数年ぶりに買ったはやみねかおる先生の小説も読み終わってしまい、僕はこの暇をどうにか有効活用しようと思い、以前から書いておこうと思っていた僕のコンテンツ観をここにまとめてみることにした。


僕はコンテンツが好きだ。


もし「コンテンツ」という響きがどこかキザっぽく感じるのであれば、それは「アニメ」や「ゲーム」「マンガ」もしくは「小説」でもいい。そもそも「コンテンツ」という言葉自体そういったジャンルのモノの総称なのだから別に格好を付けるつもりはない。“そういった”という表現は曖昧かもしれない。というのも僕は自分のコンテンツ観があまり一般的でないことを最近人から指摘されてから、その好きにも色々な種類があることが分かったからだ。


人のコンテンツ観というものは、単純に『コンテンツのどういうところが好きですか?』という質問の答えに表れるような気がする。まぁ、ここでもコンテンツという考え方が想起しにくいのであれば、それを「アニメ」なり「マンガ」に変えてみてもかまわない。


ちなみに僕の答えは「面白いモノを作って人を楽しませるところ」。


こういう捉え方は意外と一般的でないらしい。何故かといえば、アニメもマンガも小説もゲームも、それを鑑賞することが好きという人が大半のようだからである。実のところ、僕は『アニメが好き』『ゲームが好き』という人を数多く知っているが、その人達と意見を交わしても、なかなか共感できないことが多々ある。その原因は分かっているつもりだ。


何を隠そう、僕はコンテンツの内容(変な表現…)自体にあまりこだわりがないのだ。


つまり、この作品は面白い、その作品は微妙、あの作品はつまらない、君の気に入った作品はどれ?という議論にあまり意味が感じられないのである。


どんな作品でもその作品を観て楽しむ人がいるのだから、たとえ自分があまり面白いと思えなくても、ただ自分の感性と作品が合わなかっただけであって、特定の誰かが悪いとは思えない。払ったお金は口惜しいけど。


それは僕にとってのコンテンツが「面白いモノを作って人を楽しませること」だからなのだと思う。こういう考えを持っている人がいて欲しいとは思うが、多くの人は「面白いモノを観て楽しまされること」が好きなんだろうとも思う。だから自分の好き嫌いがはっきりする。自分は楽しまされようとして観ているわけだから、その意に沿わなければ確かに気に入らない。当然だ。


そうは言っても、僕だってコンテンツを観て『凄い、面白い!』と感じることが全くないわけではない。むしろ、そう思うことの方が多い。内容そのものに特定のこだわりがないから、簡単に楽しまされてしまう。あまり乗り気でない映画でも、友人に連れられて二時間大きなスクリーンの前に座らせられれば、エンドロールの頃には思わず拍手をしたくなっている。特に好き嫌いがない分、ころっと楽しまされてしまうのである。


これがもし「僕がコンテンツを好きな理由」というレポートであれば、この辺で熱心なコンテンツ好きの人から『そんなことでコンテンツが好きと言えるか!』とおしかりを受けてしまいそうである。


でも。それでも僕はコンテンツが好きだ。


僕のコンテンツの消費感覚の強さが一般的なそれ以下であることは疑いがないが、コンテンツが好きだという事実は否定しようがない。


話をもどそう。僕が好きなのはコンテンツの「面白いモノを作って人を楽しませる」という点である。つまりは、消費するより提供するほうに興味があるといっていい。


とは言ったものの、僕はイラストが上手いわけでもないし、作曲が出来るわけでも、文才に富んでいるわけでもない。コンテンツにこだわりがあるのであれば、恐らく『俺ならここはこうする』という意識のもと、創作に精を出すことが可能だろう。だが、僕にはそれが出来ない。大概の場合、人の作品に『面白いなぁ』と感じてしまい、たとえ見えていたとしても、欠点や改善点を指摘できないのだ。


そんな考えを持つ僕をコンテンツはお呼びでないのだろうか。
そう結論づけてしまうのも当然だがむなしいだけなので、もう少し話を続けてみようと思う。


例えば、こんな問題があったとする。

【太字部のひらがなを漢字に直しなさい】


コンテンツをせいさくする

この問題、実は正解が2つあるのだが、お分かりだろうか?


一つは「制作」
もう一つは「製作」


この二つを区別なく使っている人もいるかもしれないが、ご存じの通りこの二つの「せいさく」は意味が違う。


まず「制作」。
これは作品の創作活動そのものを指す。そして制作者とは、作品そのものを作り上げる、イラストレーター、作詞家、作曲家、実演家、アニメーター、プログラマー、漫画家、小説家、映画監督などのことである。つまり、「制作」とは一般的に「コンテンツを作る」こととして想起される作業のことである。


では「製作」とはなんだろうか?


製作は、コンテンツの企画、統括、広報、販売、流通などの、“非開発”の業務をも含めて「コンテンツを作る」という意味だ。「製作委員会」と表記されるのは、そういう理由からである。


制作と異なり、製作は一般的に「コンテンツを作る作業」として認知されにくい。ある作品が人気になったとき、注目されるのはそれを実際に作った監督や、実演している俳優や声優、脚本家などであって企画を立案したプロデューサーや、それを宣伝した広報ではない。


一見したところ、非開発職は大した働きをしていない印象を受けてしまう役職ではあるが、僕はそういう仕事が絶対に必要だと思っている。本当に良いコンテンツを作るためには、才能ある制作者だけではどうしても足りない部分があると思うのだ。


僕の中で、コンテンツはエンターテイメントと同義である。
エンターテイメント。人を楽しませるモノ。娯楽。


だから、究極的にコンテンツはカスタマーのニーズを満たす必要があるとも思っている。つまり、コンテンツという概念は、消費者ありきの概念だと考えているのだ。見る人のことをちっとも考えていないコンテンツはコンテンツとは呼べない。


ここはコンテンツの捉え方によって意見が分かれるところだと思う。
芸術家肌の人なら、『大衆に迎合するコンテンツなど商品であって価値などない』と言うかもしれない。


そうだ。その通りなのだ。コンテンツは商品。それで何がいけないというのだろうか。


だってコンテンツは人を楽しませるモノだろう?


もちろん、完全にマーケティング優先で、制作者の主義も主張もない“空虚なコンテンツ”は面白いとは思わない。


なぜなら、どうしては分からないが、そういう作品はただ作っただけでは絶対に支持を得られないからだ。ここをあまり掘り下げるつもりはないが、「面白い」という概念は、それを媒介するモノに、作り手のしっかりとした『面白いモノを作ろう』意識が介在していないと働かないようなのである。


だから、「コンテンツを作る」という作業は、制作も、製作も、作り手の『面白いモノを作ろう』という意志と、受け手の『面白いモノを見たい』というニーズを上手にすりあわせた上に成り立つものなのだと思う。どちらかが欠けても本当に面白いコンテンツは生まれ得ない。難しい作業だ。


僕の中には『面白いモノを作りたい』という意識が確かにある。
それは『面白モノを見たい』という意識より、多くの部分を占めている。


そして、僕は制作より製作に向いているように思えるのだ。
コンテンツは好きだ。でも直接作ることは僕に多分向いてない。
でもどうにかして携わりたい。だから、制作(つく)るのではなく、製作(つく)りたい。


制作者の人達が一生懸命作ってくれる素晴らしい作品を、より一層素晴らしい“コンテンツ”へと昇華させる手伝いがしたい。


面白いモノを作って人を楽しませたい。
だから、僕は「アニメ」でも「マンガ」でもなく、「コンテンツ」という言葉を好む。
何故なら、「コンテンツ」こそ、僕のやりたいことをうまく表してくれているように思えるからだ。

慶應義塾大学SFC環境情報学部2010年度入学試験問題 小論文 合格者再現解答


問題は以下で確認して下さい。


http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/10/k20.html


(1)(500字以内)


電子図書館」構想が意味するところがつまりはクラウドコンピューティングであることは資料A-1から読み取ることが出来るが、この構想に近い理念を持つウィキペディアの現状を考えれば、それが最も機能するのは、資料A-2で述べられているように「真に世界に開かれたメディア」であるときである。つまり、アクセス端末の普及を含めたデジタルディバイドの根絶を含め、そのコンテンツが全ての人にとって等価値でなくてはならないのである。しかし、同資料にあるとおり、絵画などに比べて文章はそのアクセシビリティ(読めるかどうか)が保証されにくく、それを読んだ人が得られる知識に差が出来てしまう。それでは意味がない。そこで白羽の矢が立つのが自動翻訳であるが、これは文意などの問題により普及しないだろう。結果としてその文章はコンテンツの等価値を保証する<普遍語>で書かれていなくてはならなくなる。そして、その候補が英語である。資料3で述べられているように、<大図書館>計画が進めば進む程、それを利用したい人はますます英語で知を営むようになるだろう。日本語のような少数言語は学問の場では用いられなくなり、日常生活でしか使われなくなるだろう。(499語)




(2)(300字以内)


まず長所についてであるが、資料B-1で述べられているように、電子書籍は印刷書籍と異なり物理的スペースをとらない。また、そのコンテンツが電子データであるため、検索や更新、流通が容易である。また、データがオンラインで管理されていれば、どの本を持って行こうかという心配もなくなる。次に短所であるが、これは資料B-2・3で述べられているように、電子書籍はデータで構成されているため、複製などが簡単にできる。また、個人で制作・流通が可能であるためーこれはしばしCGMの議論で指摘されることだがーその内容の正確さ、起源、文脈的意味に関心が持たれず、それ自体の質が保証されないという点である。(283字)



(3)(700字以内)


私はSFCにおいて「コンテンツ」―特にUGC/CGMとWEB2.0的メディアの研究がしたいのであるが、今まで個人的に調べ物をする際に、大変不便な思いをした。まず第一に、私のように研究分野が極めて新しい分野の場合、参考に出来る資料がそもそも少ないのである。すでに完成され、体系化されてしまった(あくまでたとえだが)物理や化学のような学問についてであれば、大学の図書館に行けば困ることはないだろう。しかも、刻々と深化を続け、その時代における意味さえ常に変化させているインターネットメディアのような分野の場合、一般的な「テキスト」だけでは捉えきれないのである。映像、音楽、絵画…メディアの形態も様々だ。つまり、数が少ない上に多方面に散在している資料を集めるのが大変なのである。第二に、図書館は単に本がたくさんある場所ではなく、公共の場であると言うことである。上記で述べた私が必要としているデータを一同に集めれば、一つの図書館を埋めるかもしれない。しかし、それではニーズが少ない上に場所ばかり占め、図書館とは言えない。つまり、今までの印刷書籍の図書館も公共の場にしては十分にニーズを満たしてはいなかったのである。しかし、電子図書館はこれらの諸問題を解決してくれる。第一の問題は、全てのメディアをデータ化し、クラウドの中にたくわえることで、今この場にいながら最新の情報に触れることが出来るようになるし、第二の問題は言わずもがな、データは絶対量でニーズを満たす。以上から、私にとって電子図書館情報格差を是正し、新たな知の創出を促進する意味を持ち、私を含めた全ての人の間で等しく共有されるべきである。(683字)

慶應義塾大学SFC総合政策学部2010年度入学試験問題 小論文 合格者再現解答

問題については以下で確認して下さい。


http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/10/k13.html


(1)図示

(1)説明(400字以内)


私が介護業界の高離職率の直接的原因であると考えたのは、図の3つである。低賃金は、資料2表3の満足度DIと表4から、最も深刻で直接的な原因であると言える。次に、「福利厚生等の処遇」であるが、これは表3の2・4・5・6など、数が多い上不満が多い。そして“精神論・介護は心”であるが、資料3・資料2表2を併せて考えれば、介護業界の業務内容と志願者の意識が乖離していることが分かり、これも極めて直接的原因と言える。次にそれら直接的原因を生み出している間接的原因に図の2つが挙げられる。能力開発不足は、資料3で述べられているように低賃金などに繋がり(専門性の低下)、コミュニケーション不足も、上司と仲が悪ければそのまま能力開発不足や精神論にも繋がる。そして、これらの根本的原因は業務管理の改善を行おうとしない“無能な管理職”であり、低賃金や処遇などの根本的原因は労働環境を改善しない行政の責任だ。(392字)



(2)(200字以内)


私は有効だと考える。何故なら資料2表4の回答率二十%以上の離職理由の四つである「運営」「人間関係」「収入」「処遇」について、資料4において実施率三十五%以上の施策の六つはそれぞれ「能力開発〜」「経営者〜」は「運営」に、「コミュニケーション〜」は「人間関係」に、「賃金〜」は「収入」に、「労働時間〜」「非正社員〜」は「処遇」に対応しており、極めて実状をつかんでいる施策であると言えるからである。(196文字)



(3)(200字以内)


私は有効でないと考える。何故なら、資料2表1から介護業界が極めて流動的であることが分かるが、資料2表3・4を考えると、その原因が賃金だけにあるとは言い切れず、資料1の冒頭から、七%の介護報酬引き上げがなされたとしてもその平均報酬はサービス業界を下回り、労働力不足解消の動因になるとは考えにくい。よって福利厚生や処遇(産休時の生活保障、職業病などへの特別保証金、業務実態の改善勧告)も重視すべきだ。(198字)


(誤字脱字など修正しました。)