誰が火野映司を殺したか?〜『仮面ライダーオーズ』感想

ハチミツとクローバー』と同時期に観ていた『仮面ライダーオーズ』。地味に平成ライダー初視聴作品です。(と言っても昭和ライダーは観たことないけど)
例によって色々思うところあったのでつらつらと。

いや、普通に面白かったです。実写アレルギーのある僕の中ではダントツで面白かった作品。
ただ、絶賛できるかというと、「うーん」という感じ。そのレベルの作品を48話分見るのは正直きつい部分もあった。
毎週見てるとかだったらもっと印象が変わってたのかもしれないな。

物語的には終始一貫して火野映司/アンクという、文字通り表裏一体の二人の人間(一方はグリードだけど)を描いていました。
ですが、僕にはその二項対立はあんまり映らなかったのが正直なところで、むしろ、火野映司/他のキャラクターというような対立軸が見えました。

この作品で特徴的なのは、登場するキャラクターの全員がそれぞれ自分の欲望(夢や目的)を持っていて、基本的にそれに忠実だという点です。

例えば、物語中盤から登場する伊達さんはそれが顕著で、グリードとの戦いを「お仕事だから」と割りきっています。それは彼が初登場時に言ったとおり、彼の目的が「1億稼ぐ」という実に即物的なものだった点から明らかなのですが、そんな彼がなかなかどうしてカッコイイ。僕はこの作品で伊達さんが一番好きです。

で、どうして彼がカッコイイかというと、それは彼が「仕事だから」という一見受動的なモチベーションで戦っているのにも関わらず、滅茶苦茶強いからです。
普通に考えて、人間は受動的な状況よりも能動的な状況において高いパフォーマンスを発揮するものです。そして、現代において「働く」という行為はすべからく「生きるため仕方なくやる」という受動的なものだと解釈されています。だから、本来は、「人を助けたい」という能動的な理由で戦っている映司くんは、伊達さんなんかよりも数倍強いはずなんです。だけど、実際伊達さんは映司くんよりも強い(コンボによってはオーズの方が強いですが、それを差し引くとやっぱりバースの方が強い)わけです。その理由はまぁ単純で、


伊達さんがムキムキだから(笑)

いや、マジで伊達さんいい体してるからね。
映司くんもわりと鍛えてるけどそれでも伊達さんのガチムチ具合には叶わない。ましてや後藤さんなんて爪楊枝ですよ、爪楊枝(笑)。

まぁ実際これは冗談ではなくて、つまり、伊達さんは「バースをやっているから強い」のではなく、「強いからバースをやっている」んですよね。どういう経緯で彼がバースに任命されたのか(公募制だったのだろうか?)は分かりませんが、少なくとも彼は鴻上会長の眼鏡にかなった上でバースになっています。誰でもバースになれるわけではないというのは、後藤さんの例からして分かると思いますが、それだけ彼にはバースたる資格がある。

映司くんはその逆です。映司くん単体は一般人に毛が生えた程度の人間ですが、それをオーズという強大な力で補って戦っているに過ぎません。つまり、オーズドライバーが彼をオーズたらしめているのであって、彼自身がオーズたりえる存在であるわけではありません。それは彼がオーズになった経緯からして当然ともいえるのですが……。

そして、伊達さんをバースたらしめているのは、つきつめれば「お金」です。
「ある目的」の為に1億円が必要で、それを稼ぐため「だけ」にセルメダルの回収を行っているわけですね。
実に単純です。が、それだけに彼は最初から最後までまったくブレることがない。
彼のやることなすことすべては「お金のため」であり、それ以上でも、それ以下でもありません。
だから彼は戦闘中、他の何かに気を取られることはなく、自分の仕事をきっちりこなします。

さて、その一方で「仕事とは何か?」と悶々と悩み続ける人がいます。そうです、我らが後藤さんです。彼はもともと警察官だったらしく、「世界を守る仕事がしたい」という目的で鴻上ファウンデーションに転職をした厨二病なお兄さんなわけですが、どうしてか世間は彼に辛い(笑)

「鴻上ファウンデーションライドベンダー隊隊長」という肩書きを持ちながらも、序盤の彼の仕事といえば鴻上会長のパシリばかり。頼みの部下たちは1話で全滅。久々にあった元同僚には「よう、お前正義の味方になるとか言ってたけど、今なにやってんの?www」と小馬鹿にされる始末。まさに同窓会に顔を出してしまったフリーター状態。居たたまれません。



世界を守るお仕事中の後藤さん(22)


昔の同僚に遭遇し(´・ω・`)となる後藤さん(22)


そんな後藤さんは、迷走しまくった挙句、映司くんたちのいる多国籍料理店「クスクシエ」でウェイターとして働くことになるわけですけど……。
それにしてもこの二人は対照的ですよね。「世界を守る仕事がしたい」という強いモチベーションを持っているにもかかわらず、後藤さんはバースにはなれませんでした。伊達さんがバースとして登場する直前に彼は鴻上会長からバースについて話をされますが、プライドの高い後藤さんだけあって素直にそれを受け取ることはしませんでした。というか、実際は「物理的に」なれなかったわけなんですけども。

ここで皮肉、というか興味深いのは「世界を守りたい」という気持ちだけでは世界を守るどころか土俵にすら上がれないということ。従来のヒーローモノでは、ヒーローたる条件の一つとして「世界を守りたい」というモチベーションがあるわけですが、それは必要条件であって十分条件ではないわけですよね。『偽物語』でも阿良々木くんはこんなことを言っていました


正義の第一条件は正しいことじゃない、強いことだ。

うーん、実に現実的というか。
ヒーローだから強いのではなく、強いからヒーローなんだという論理転換です。

伊達さんは「世界を守りたい」などというモチベーションはこれっぽっちも持ち合わせていなかったけど、結果として敵を倒して平和を維持している。一方、後藤さんは「世界を守りたい」と思ってはいるのだけれど、実際何も出来ていない。この対比が面白かったですね。鴻上会長は後藤さんを評して「無駄なプライドを捨てて欲望に忠実になるべき」と言っていましたが。

さて、「戦う理由」で言えば、当然主人公である火野映司/仮面ライダーオーズについても触れておく必要があるでしょう。
この作品のキャラクターたちはみなそれぞれに自分の欲望に忠実に生きているのですが、映司くんは一番最初から「俺には欲望がない」ということをほのめかしながらもヤミーが出現するたびに戦いに赴きます。

なぜ火野映司は戦い続けるのか。

映司は第1話で瀕死になった比奈ちゃんのお兄さん(真悟さん)に取り付いたアンクからオーズドライバーを託され、オーズとして戦うことになるのですが、この二人は最初から最後まで「仲間」という関係ではなく、むしろ目的のための「共闘関係」にありました。アンクは、完全復活を果たすためにコアメダルとセルメダルを集める必要があるのですが、どうやら自分ではそれは難しそうなので、オーズドライバーをもった映司にそれを委任します。実際、映司はその要求を飲む道理などまったくないのですが、アンクが真悟さんから離れてしまうと彼が死んでしまうということを知り、半ば強制的にアンクの要求を飲むこととなります。

さて、表向き二人はこういった関係で戦いを続けるわけですが、映司が仕方なく戦っているかというと、そうでもありません。むしろ、戦うことに生きがいすら感じているような危うい印象さえ覚えます。

映司くんはもともと世界を放浪していたときにとあるアフリカの貧しい国で内戦に巻き込まれ、親しくしてくれた子供を助けることができず、それどころか父親の差し金で自分だけ助かってしまったという経験に非常なコンプレックスを抱いたキャラクターです。あのとき自分にもっと力があればあの子を救えたのではないか……という後悔が彼をオーズに変身させるモチベーションとなっています。

だから、映司くんは欲望がないように描かれながらも、むしろ、作中で最も強い欲望を持ったキャラクターだったわけです。(鴻上会長曰く、それゆえオーズの器足り得た)

しかしながら、映司のもつ欲望が明らかに他のキャラクターたちと異質なものであることは否定できません。

伊達さんの欲望は「(生きるために)1億稼ぐ」ことだったし、後藤さんの欲望は「世界を守る仕事がしたい」、比奈ちゃんは「ファッションデザイナーになりたい」という個人的なものでした。個人的という観点で云えば、それは敵であるグリードもまったく同じでした。当初こそ彼らがどういうモチベーションでヤミーを生成しているのか不透明でしたが、最終的には彼ら全員の欲望が「人間になりたい」というプリミティブな欲望に帰結しているということが判明します。やや歪んだものであることは否めないものの、物語のラスボスである巻博士の行動も「物事は須らく終わるから美しい」という非常に個人的な価値観、欲望に基づいたものでした。

ですが、映司のもつ欲望は「個人的な」ものとは言いにくい。なぜかというと、彼の「欲望」というべきものが、外向きのベクトルを持っているからなんですね。

ここでいうベクトルとは、その欲望伴った行動が最終的に帰結する対象のことを差しています。例えば、伊達さんの欲望の帰結する先は伊達さんの生存なわけですから、内向きのベクトルです。大仰なことを言いながらも後藤さんの欲望はつまるところ「自己実現」であり、それは比奈ちゃんと同じで、内向きです。

しかし、「人を救うこと」という欲望の帰結先はあくまでその相手です。映司の欲望は、「自分の出来る限りの人を救うこと」でした。

世の中にはそういう自己犠牲というか、究極的な利他主義者がいることを僕は否定しませんが、果たしてそれがその人自身の幸せにつながるのか、ということについては懐疑的です。人間、人が困っていれば出来る限り助けになろうと思う(と僕は信じているけどあんまり信じられない現実)わけで、その意識は大同小異、絶対値は違えどベクトルは同じだと思います。試験会場で筆記用具を忘れてしまった人がいて、その人に鉛筆を貸してあげるのはcommon senseでしょう。もしかしたら2本貸してあげる人もいるかもしれないし、消しゴムも貸してあげる人もいるかもしれません。それはその人の意識の差で、消しゴムまで貸してあげた人が鉛筆しか貸さなかった人よりもえらいというわけではありません。それが映司くんが言うところの、「自分の出来る限りの」助けですね。

ですが、その場で1本の鉛筆しか持っていないにもかかわらず、その困っている人に鉛筆を貸してあげる人がいるとしたら、どうでしょうか。普通に考えてその鉛筆を渡してしまえば自分は受験できなくなるわけですから、試験を受けに来ている以上その選択肢はありえないはずです。

そして、それをやってしまうのが火野映司という人間なんです。
彼は表向きには「自分の出来る限りの」ことをやっていると嘯いていますが、実際はそれは嘘です。彼は人を救うために自分の命を省みません。それははっきり言って「自分の出来る限り」の限度を超えています。確かにヤミーという怪人に対抗出来る存在は、世の中にオーズ(とバース)しかないのかもしれません。ということは、オーズが何もしなければヤミーは暴れ続け、人々を殺戮し続ける事になります。これは確かに好ましくないことですが、「オーズにしかできないから」という理由でオーズの命を人々の命と天秤に掛けることはできないはずです。なぜなら、オーズも火野映司という一人の人間だからです。大勢の人の命を救うため少数の人を切り捨てるという考え方はマクロな視点からいえば効果的なこともありますが、倫理的にそれが許されるはずはありません。なぜかといえば、この論調を支持する人間はいつでも救われる大勢の方に含まれるからで、結局のところ、当事者にとっては救われる数が問題なのではなく、自分が助かるかどうかが問題だからです。また、これはごく当たり前のことで、誰でも自分の命をみすみすと投げ捨てることは嫌なはずです。

つまり、火野映司が置かれている状況というのは、

「ヤミーを倒せるのはオーズだけである」
「オーズに変身できるのは火野映司だけである」
「ヤミーを倒さなければ大勢の人間が殺戮される」

→「オーズがヤミーと戦わなければ大勢の人間が殺戮される」

というなんとも理不尽なものです。
特に、ヤミーを倒せるのがオーズしかいないというところが理不尽の極みで、この時点で映司が戦わないという選択をした時点で、ヤミーによる殺戮が結果的に火野映司のせいになってしまうという点です。言うなれば、試験を受ける人間が2人しかいなくて、片方が鉛筆を忘れてしまい、もう一方が1本しか鉛筆を持っていなかったような状況です。この場合、当然忘れた方に鉛筆を貸せるのは鉛筆を持っているもう一方ですが、持っている人は自分が貸してしまえば自分は試験を受けられなくなるわけですから貸せるはずがありません。にも関わらず、忘れた方の生死(とあえて呼ぶことにする)を握っているのは鉛筆を持っている人間だけです。

だから、本来「鉛筆を忘れたから試験に落ちた」という因果関係が、「鉛筆を持っている方が鉛筆を貸さなかったから試験に落ちた」という因果関係にすり変わりかねないんですよね。もちろん、これはやや極端な例ですが、構造としては大して変わらないはずで、もう片方が2本鉛筆を持っていたとしても、状況はそんなに変わりません。なぜなら、不測の事態をみこして保険を持っておく必要があるからです。その場合も、因果関係は後者にすり変わります。

話を戻すと、generalな人間であればこんな仕打ちに耐えられるはずがありません。

「お前が戦わないと大勢の人間が死ぬ。だから、大勢の人間が死んだらお前のせいだ。でも、お前の命のことは知らん」

と言われているのですから。

にも関わらず火野映司は戦い続けます。上記の破綻した論理を無視すれば、彼が戦う理由は真悟さんの命だけであって、それすらもアンクに握られている以上映司くんがどうこうできる問題ではなく、従って真悟さんが亡くなっても映司くんは何も悪くないはずなんです。(真悟さんが瀕死になったのも、突き詰めれば自分のせいだから)

つまり、彼が戦う理由客観的な理由は何一つなくて、彼が戦っているのは彼の自由意志によるものです。そしてそれというのが「出来る限りの人を救いたい」という彼の欲望なのですが、実際それは欲望というにはあまりに脆い。

なぜかといえば、欲望というのはまず何らかの動機があって、それに基づくゴールが必ずあるからです。例えば僕なら

欲望:「性能の良いパソコンが欲しい」

という欲望があったとして、これに付随する動機とゴールが

動機:「使っているパソコンの動作が遅いから」
ゴール:「新しいパソコンを買う」

になります。ですが、これだけでは当然欲望は叶うはずはなくて、欲望とゴールを結びつける「行動」が必要になります。この場合では、「新しいパソコンを買う」にはお金が必要で、従って

行動:「アルバイトをしてお金を稼ぐ」

という要素のが追加されるわけです。僕はこれが健全な欲望の在り方だと思うし、オーズに登場するキャラクターたちは映司を除いた全員がこの欲望モデルに当てはまります。

ですが、映司だけはこのうち「欲望」「動機」「行動」の3つしか彼の中に存在せず、ゴールが存在しないんですね。だから彼がオーズとして人を救い続けたとしても、最終的に彼がたどり着く場所がない。つまり、彼の欲望は終ぞ満たされることがないんです。だから、彼が自分の命すらなげうってしまうのは、彼の中に明確なゴール(こうすれば、人を助けたことになるというモデル)が無いためです。彼も、出来ることなら自分の命は投げ打ちたくなんかないんでしょうが、ゴールが見えない以上、自分の命をなげうてば人を救ったことになるかもしれないという危険な思考に行き着いてしまうんですね。

これが外向きベクトルの欲望の危うさで、仮に自分の中に確固たる「欲望」「動機」「行動」があったとしても最終的な「ゴール」の判断が他者に委ねられている以上、自分ではその欲望を叶えることができないんですよね。『ハチミツとクローバー』の感想の山田さんの部分でも触れた、「自分の好きになった人に自分を好きになって欲しい」という欲望もこのタイプですね。欲望自体は個人的なものなのに、その実現判定権が自分にない、という矛盾です。

だから火野映司は戦い続けなくてはいけないんです。文字通り、死ぬまで。
それも、誰かに強要されるわけでもなく、確固たる自分の意志で、です。

物語的にもこれは結構重要な部分だったらしく、42話でヤミーに襲われた人々が亡者のようにオーズを呼ぶシーンがあります。このとき、プトティラコンボに蝕まれた体をおして戦いに赴こうとする映司を真悟さんが止めるんですね。

このまま彼を都合のいい神様にしちゃいけない。

僕はこのシーンはすごく好きですね。ここまでずっと映司くんに守られるばかりで映司くんに何も出来ていなかった比奈ちゃんが、はじめて自分にも出来ることについて意識を向けたわけですから。

まぁでも結果的に映司くんはそんな比奈ちゃんや後藤さんたちの静止すら振りきって戦いを続けていくのですけれど。

ヒーローの宿命として、人々の幸せを守るためには自分自身の幸せを顧みてはいけないという問題がありますが、現実問題としてこんなひどいことあるでしょうか。この物語で描かれているのは、火野映司の痛々しいまでのヒーロー性です。この「痛々しい」というのが肝要で、本来ヒーローというものは皆が憧れ、とにかく強くてカッコイイそういう存在なわけです。ですが、火野映司の戦いを見ていて彼に憧れる人が果たしているのかどうか、僕はちょっとわからないですね。

確かに火野映司はヒーローの条件を十分に満たしてはいるのですが、仮面ライダーオーズという存在を俯瞰してみたときにその歪さ、「無理してる感」が出てしまうんですよね。で、それがどうしてかと言えば、結局映司くんは人のために戦ってはいても、映司くんに助けられる人は自力でその問題を何とかしようとかそういう意識が全くないという点ですよね。自分で何とかできなくとも、その人の周りにいる人達が何とかしてあげられたかもしれないのに、誰ひとりとして何もしてあげない。だから結果的に映司くんが戦うしかなくなってしまう。そういう状況なんですよ。

比奈ちゃんや後藤さんたちは、「火野映司を戦わせているのは自分たちだ」という欺瞞に気がついたからまだよかったものの、映司くんに救われた人たちは誰ひとりとしてそれを自覚していないんです。

この構造は『東のエデン』で描かれた滝沢朗の姿とまったく同じで、「誰かがやらなければいけないけどきっと誰かがやってくれるから自分は何もやらない」というこの国を覆い尽くしている「空気」がこの作品には蔓延しています。

今の日本はまぁはっきり言って沈みかけの船みたいなもので、誰もがそれを自覚していながらも、「まぁなんだかんだ言っても誰かが何とかしてくれるだろう」という無責任な考えをどうしても捨てようとしない。そういう場当たり的なメシアニズムが21世紀になっても蔓延しているわけですよ。

ジュイス、俺をこの国の王様にしてくんない?

古来より世が乱れたときに人々は超常的な「何か」に頼ってきたわけで、それ自体は否定しません。それが宗教であるにしろ、イデオロギーであるにしろまぁ大した違いはないのですが、その対象が生きた人間に向いたとしたら恐ろしい。だって、究極的にはその人間が死ぬことで世の中が良くなるのであればその人に救われるはずの人たちは迷わずにその人を殺しにかかりますからね。表向きにはなんだかんだ言いながらも、結果的にはその人の死を望むような、そういう後暗い感情を誰しも持っている。

だから、もし火野映司が戦いに破れて命を落としたとしたら、それはヤミーのせいではなく、彼にヒーロという役目を押し付けた僕たちのせいです。

もちろん、僕たちの現実世界には世界を破滅に導く怪人たちもいないし、それと戦うべきヒーローも存在しないですが、何かにつけて火野映司や滝沢朗的なヒーローを祀り上げる空気は間違いなく僕たちの中にある。

究極的には、火野映司が戦い、人を助ける必要なんてないんですよ。彼のいないところでお互いに助けあったり力を合わせたりすれば、オーズという偶像は必要なくなる。そうすれば、映司くんもきっと内向きのベクトルをもった健全な「欲望」を見つけることができるし、彼も人間の一人として救われるはずです。