2022年/コンテンツの外側から

このブログの最後の記事が書かれてから約10年が経とうとしていますが、今だに10年前の記事を読んでくれている人がいるということに心の底から驚いています。そして、とても感謝しています。

 

当時20歳の大学生だった僕は紆余曲折の20代を経ていま30歳のサラリーマンになりました。ここ2年あまり世の中は狂っていますが、とりあえずは問題なく生活できていると思います。合縁奇縁で、まだ20歳の時に住んでいた町に戻ってきて住んでいます。

 

keroxpというハンドルネームを最初に使い始めたのは、今からちょうど12年前です。

当時僕は他所でけろっぴというハンドルネームを使っていて、twitterアカウントを作るにあたって、keroppiとかkeropというIDが使えなかったことから、しぶしぶkeroxpという文字列をあてました。なので、keroxpの本来の読み方は「けろっぴ」でした。今更ですが、普通はそう読めませんよね。初見でそう読めた人はいません。高確率で「なんて読むんですか?」とか「ケロエクスピー」と率直に読む人もいるくらいです。

 

今現在は「けろっぴ」という名前で活動している場所はないので、keroxpという文字列に正しい読み方はありません。自分でもなんと読むのかは決めていません。読み方が消えて文字記号だけが残るというのはなんとも歴史っぽくて面白い話です。

 

keroxpというアカウントはネット上にいくつか散見されますが、おおむねプログラマーとしての活動が目に付くと思います。僕は大学時代、つまりこのブログを書いていた時期に勉強していたプログラミングで大学と大学院を卒業し、現在もプログラマーをしています。

 

Out of Contentsというブログのタイトルは、実は二代目です。初代のタイトルを覚えている人はおそらくこの世に僕以外に1人くらいしかいないと思います。Out of Contentsというのは和製英語というか、英語としての意味はほとんどなしていません。言いたいところとしては「コンテンツの外側」という意味なのですが、ここでいう「コンテンツ」というのは映画や漫画のようなエンターテイメント作品のことです。「コンテンツ」が和製英語なので、まぁ変な英語になっています。ただ語感がとても良かったのそう名付けたのです。

 

コンテンツの外側というのはコンテンツを取り巻きコンテンツを外側から見るということで、コンテンツの内側、すなわちコンテンツそのものを作ることのできない自分を皮肉った名前でした。

 

当時の自分はクリエイターというものに漠然とした憧れをもっていて、自分も何か作りたい、クリエイターになりたいという焦りにも似た情熱を持っていました。しかしアニメや漫画はたくさん見てきたけど、何か作品を形にしたこともない。なので自分が何を作れるのかも分からず毎日鬱屈と過ごしていた記憶があります。

 

このブログにコンテンツの感想を書き始めたのは、コンテンツの構造やキャラクターの分析といった、クリエイター・クンフーを兼ねたものでした。当時一番仲の良かったコンテンツ好きの友人、というか師匠みたいな人から勧められた作品をみて、彼への私信のような形で書かれたものがここにある文章です。

 

なので不特定多数の人に見られるとは思ってもいませんでした、自分の予想に反して好意的に受け止められていることも、それが10年経った今も読まれているというのは本当に予想していなかった結果です。

 

そんなクリエイター・クンフー(彼がそういったのです)はその後の僕の「コンテンツを見る、理解する力」を大いに育んでくれました。一つのコンテンツをただ見るだけではなく、理解することによって作品を二度楽しむことができるようになりました。

 

大抵の人はコンテンツをみたとき「面白い」か「面白くない」かくらいでしかその作品を語ることができないと思います。もちろん、それが正しいコンテンツの見方であり、楽しみ方です。しかし、そこにもう一歩作品に踏み込んで、色々な考えを巡らせることによって、作品をより「面白い」と感じることができるようになるのです。

 

コンテンツの批評や分析というのは、作品がなぜ面白か、あるいはなぜ面白くないのかということを言語で表す活動です。作品が面白かったならそれでいいじゃないか、というのはもちろんそうなのですが、なぜ面白いかを言葉で説明できると、とても気持ちがよくなるものなのです。

 

いい批評というのはいい作品への理解をより深め、ひいては作品自体のクオリティを底上げすることさえあると思います。なぜなら、作品の価値は見た人の感情で決まるものだからです。作品をみて感動した人の感情を、より高めることができるのなら、それは作品自体の価値をあげているということにもなるのだと思います。

 

一方で批評というのは極めて個人的でアンフェアな行為です。批評と創作、どちらが大変かというのは議論する余地はありません。作る方がはるかに大変です。また、たいていのコンテンツは商業的な商品として作られているので、個人的とは呼べないものでもあります。二人以上のひとが、お金を稼ぐために一生懸命知恵を絞って作られたものを僕たちが見ているわけなので、そもそもフェアな関係ではなく、どこまで行っても売り手とお客さんでしかないわけです。

 

また批評は基本的に個人で行われます。そこに書かれているのはどこまで行っても個人の感想です。個人の意見ですから、完全にフェアなものはありえません。その人の人となりや価値観がとても強く反映されたものになるでしょうし、少なくない勘違いも挟まっていることでしょう。また、そもそも作品を見ただけの消費者には、クリエイターしか知り得ない情報というものが欠落しているので、あくまで作品を見た自分という立場しか表明できません。なので、クリエイターと批評家の間には永遠に埋まらない大きな溝が横たわっています。

 

それでもなお感想を言語化したいと思うのは、作品を理解したいというよりも、自分を理解したいからなのだと思います。作品がなぜ面白いのか?を考えることは、作品にこう感じた自分は何なのか?ということを考えることだと言えます。

 

コンテンツを見るということは、コンテンツを通して自分自身を見つめるということに他なりません。僕はコンテンツを語ることによって、よりコンテンツを理解する力を持つことができましたし、それを人に説明することも得意になったと思います。それが、彼が教えてくれたクリエイター・クンフーの成果です。

 

この10年、僕はコンテンツの外側から内側にどうにか近づこうともがき続けていました。小説を書いたり、絵を描いたり、ゲームを作ったり、音楽を作ったり、3DCGを作ったりしました。しかし、そのほとんどがうまくいきませんでした。そのどれも、その道の一流と呼べるような結果を出すことはできませんでした。創作が失敗するたび、心が折れてどうしようもない気持ちになりました。

 

ただそれでもひとつ言えることは、僕の人生はコンテンツによって支えられてきたということです。作品を見ること、作品を語ること、作品を作ることによって僕の人生は前に進んできました。よく行き詰まる僕の人生を、その度に歩を進ませてくれたのは幾千万の作品たちなのです。それは時に人が作った作品であり、時に自分で作った作品でもあります。それらがなければ、間違いなく僕という人間はなかったでしょう。

 

30歳になった僕は、何かを作るということに対する情熱を失いかけています。何かを創作するということのエネルギーの巨大さに、恐怖を抱いてすらいます。自分の作ったものが、誰からも見向きもされないことを、心の底から怖いと思っています。

 

20歳のとき、酒を酌み交わしながら、アニメについて夜通し語った友達はもういません。僕たちの青春は終わったのです。僕はあの頃よりもずっと広い家の居間で一人、この文章を書いています。皆、それぞれの人生を見つけたのです。

 

なぁ、お前ら。

 

今どうしてる? どこで何してる? こんな狂った世の中でちゃんと息してるか?

俺はギリギリだよ。もう立ってらんねぇよ。つれぇよ。

 

俺はこの10年頑張ったよ。本当に頑張ったよ。作り続けたよ。

何をとかどうやってとかこだわらずにずっと作り続けたよ。

 

でもさぁ、まだ足りないんだよ。まだ外側なんだよ。

いい加減自分信じらんねぇよ。俺は何やってんだよ。なぁ。

 

俺作りたいよ。作り続けたいんだよ。馬鹿みたいだよな? ほんとにさ。

そんなことまだ言ってんだぜ。30にもなってさ。彼女の一つも作らずにさ。

きついよ。人並みの幸せみたいなのに興味持ちてぇよ。でもないんだよ。いまさら。

他のどんなことにも惹かれないんだよ。満足できないんだよ。

いいものを作る以外で人生の充実を感じることはできないんだよ。

作りたいのに作れない今がつれぇよ。ほんとにさ。

 

何ができんのかな? 俺。何が作れんのかな? 俺。まだ何かを作れんのかな?