アニメでもマンガでもなく

もう3月だというのに、今日は全国的に季節外れの大雪だった。そういう事情から外出することもはばかられ、僕は一日中部屋にこもって本を読んでいた。そうしているうちに、数年ぶりに買ったはやみねかおる先生の小説も読み終わってしまい、僕はこの暇をどうにか有効活用しようと思い、以前から書いておこうと思っていた僕のコンテンツ観をここにまとめてみることにした。


僕はコンテンツが好きだ。


もし「コンテンツ」という響きがどこかキザっぽく感じるのであれば、それは「アニメ」や「ゲーム」「マンガ」もしくは「小説」でもいい。そもそも「コンテンツ」という言葉自体そういったジャンルのモノの総称なのだから別に格好を付けるつもりはない。“そういった”という表現は曖昧かもしれない。というのも僕は自分のコンテンツ観があまり一般的でないことを最近人から指摘されてから、その好きにも色々な種類があることが分かったからだ。


人のコンテンツ観というものは、単純に『コンテンツのどういうところが好きですか?』という質問の答えに表れるような気がする。まぁ、ここでもコンテンツという考え方が想起しにくいのであれば、それを「アニメ」なり「マンガ」に変えてみてもかまわない。


ちなみに僕の答えは「面白いモノを作って人を楽しませるところ」。


こういう捉え方は意外と一般的でないらしい。何故かといえば、アニメもマンガも小説もゲームも、それを鑑賞することが好きという人が大半のようだからである。実のところ、僕は『アニメが好き』『ゲームが好き』という人を数多く知っているが、その人達と意見を交わしても、なかなか共感できないことが多々ある。その原因は分かっているつもりだ。


何を隠そう、僕はコンテンツの内容(変な表現…)自体にあまりこだわりがないのだ。


つまり、この作品は面白い、その作品は微妙、あの作品はつまらない、君の気に入った作品はどれ?という議論にあまり意味が感じられないのである。


どんな作品でもその作品を観て楽しむ人がいるのだから、たとえ自分があまり面白いと思えなくても、ただ自分の感性と作品が合わなかっただけであって、特定の誰かが悪いとは思えない。払ったお金は口惜しいけど。


それは僕にとってのコンテンツが「面白いモノを作って人を楽しませること」だからなのだと思う。こういう考えを持っている人がいて欲しいとは思うが、多くの人は「面白いモノを観て楽しまされること」が好きなんだろうとも思う。だから自分の好き嫌いがはっきりする。自分は楽しまされようとして観ているわけだから、その意に沿わなければ確かに気に入らない。当然だ。


そうは言っても、僕だってコンテンツを観て『凄い、面白い!』と感じることが全くないわけではない。むしろ、そう思うことの方が多い。内容そのものに特定のこだわりがないから、簡単に楽しまされてしまう。あまり乗り気でない映画でも、友人に連れられて二時間大きなスクリーンの前に座らせられれば、エンドロールの頃には思わず拍手をしたくなっている。特に好き嫌いがない分、ころっと楽しまされてしまうのである。


これがもし「僕がコンテンツを好きな理由」というレポートであれば、この辺で熱心なコンテンツ好きの人から『そんなことでコンテンツが好きと言えるか!』とおしかりを受けてしまいそうである。


でも。それでも僕はコンテンツが好きだ。


僕のコンテンツの消費感覚の強さが一般的なそれ以下であることは疑いがないが、コンテンツが好きだという事実は否定しようがない。


話をもどそう。僕が好きなのはコンテンツの「面白いモノを作って人を楽しませる」という点である。つまりは、消費するより提供するほうに興味があるといっていい。


とは言ったものの、僕はイラストが上手いわけでもないし、作曲が出来るわけでも、文才に富んでいるわけでもない。コンテンツにこだわりがあるのであれば、恐らく『俺ならここはこうする』という意識のもと、創作に精を出すことが可能だろう。だが、僕にはそれが出来ない。大概の場合、人の作品に『面白いなぁ』と感じてしまい、たとえ見えていたとしても、欠点や改善点を指摘できないのだ。


そんな考えを持つ僕をコンテンツはお呼びでないのだろうか。
そう結論づけてしまうのも当然だがむなしいだけなので、もう少し話を続けてみようと思う。


例えば、こんな問題があったとする。

【太字部のひらがなを漢字に直しなさい】


コンテンツをせいさくする

この問題、実は正解が2つあるのだが、お分かりだろうか?


一つは「制作」
もう一つは「製作」


この二つを区別なく使っている人もいるかもしれないが、ご存じの通りこの二つの「せいさく」は意味が違う。


まず「制作」。
これは作品の創作活動そのものを指す。そして制作者とは、作品そのものを作り上げる、イラストレーター、作詞家、作曲家、実演家、アニメーター、プログラマー、漫画家、小説家、映画監督などのことである。つまり、「制作」とは一般的に「コンテンツを作る」こととして想起される作業のことである。


では「製作」とはなんだろうか?


製作は、コンテンツの企画、統括、広報、販売、流通などの、“非開発”の業務をも含めて「コンテンツを作る」という意味だ。「製作委員会」と表記されるのは、そういう理由からである。


制作と異なり、製作は一般的に「コンテンツを作る作業」として認知されにくい。ある作品が人気になったとき、注目されるのはそれを実際に作った監督や、実演している俳優や声優、脚本家などであって企画を立案したプロデューサーや、それを宣伝した広報ではない。


一見したところ、非開発職は大した働きをしていない印象を受けてしまう役職ではあるが、僕はそういう仕事が絶対に必要だと思っている。本当に良いコンテンツを作るためには、才能ある制作者だけではどうしても足りない部分があると思うのだ。


僕の中で、コンテンツはエンターテイメントと同義である。
エンターテイメント。人を楽しませるモノ。娯楽。


だから、究極的にコンテンツはカスタマーのニーズを満たす必要があるとも思っている。つまり、コンテンツという概念は、消費者ありきの概念だと考えているのだ。見る人のことをちっとも考えていないコンテンツはコンテンツとは呼べない。


ここはコンテンツの捉え方によって意見が分かれるところだと思う。
芸術家肌の人なら、『大衆に迎合するコンテンツなど商品であって価値などない』と言うかもしれない。


そうだ。その通りなのだ。コンテンツは商品。それで何がいけないというのだろうか。


だってコンテンツは人を楽しませるモノだろう?


もちろん、完全にマーケティング優先で、制作者の主義も主張もない“空虚なコンテンツ”は面白いとは思わない。


なぜなら、どうしては分からないが、そういう作品はただ作っただけでは絶対に支持を得られないからだ。ここをあまり掘り下げるつもりはないが、「面白い」という概念は、それを媒介するモノに、作り手のしっかりとした『面白いモノを作ろう』意識が介在していないと働かないようなのである。


だから、「コンテンツを作る」という作業は、制作も、製作も、作り手の『面白いモノを作ろう』という意志と、受け手の『面白いモノを見たい』というニーズを上手にすりあわせた上に成り立つものなのだと思う。どちらかが欠けても本当に面白いコンテンツは生まれ得ない。難しい作業だ。


僕の中には『面白いモノを作りたい』という意識が確かにある。
それは『面白モノを見たい』という意識より、多くの部分を占めている。


そして、僕は制作より製作に向いているように思えるのだ。
コンテンツは好きだ。でも直接作ることは僕に多分向いてない。
でもどうにかして携わりたい。だから、制作(つく)るのではなく、製作(つく)りたい。


制作者の人達が一生懸命作ってくれる素晴らしい作品を、より一層素晴らしい“コンテンツ”へと昇華させる手伝いがしたい。


面白いモノを作って人を楽しませたい。
だから、僕は「アニメ」でも「マンガ」でもなく、「コンテンツ」という言葉を好む。
何故なら、「コンテンツ」こそ、僕のやりたいことをうまく表してくれているように思えるからだ。