AIR CONTENTSとは何処にあるのか〜UGCの商業化とそれに関する考察〜

前回の更新から約1ヶ月半。前の二つの記事を読み返しながら、自分の記事ながらずっと違和感を覚えていました。


AIR CONTENTSとは本当にこういうものなのか?』
UGC文化のバックグラウンドを読み切れているか?』


今回のテーマは「無料」と「意識」。
UGCのキーワードではあるが、大した議論が為されていなかった、この二つの関係性にUGCの現状を読み解くヒントが隠されていました。


では始めていきましょう!

  • なぜネットコンテンツは無料なのか


現在、ネット上では《全てのインターネットコンテンツは基本的に無料である》という前提が出来上がってしまっていて、「必ずしも無料である必要がないコンテンツ」の存在が見えにくくなっているのではないかと感じます。


僕は「ゼロ年代最後の日に」でAIR CONTENTSが “空気”のように消費される一因が、《消費者にとってコンテンツが自然に湧いて出てくるものとなりつつある》という消費形態の変化であるとも述べました。さらに、その消費形態の変化の原因が、《UGCをはじめとするネットコンテンツが軒並み無料である》というところに帰着させました。


このように《疑問→答え》のプロセスをメタ的に展開していくと、次のような根源的な疑問に行き着きました。


『なぜ、無料であるのか?』

  • UGCとはなにか


実際のところAIR CONTENTSとはどういったものを指すのかという根本的な定義は未だに曖昧なままです。それは、僕自身が今のネットコンテンツの置かれている状況を『コンテンツに携わる人たち皆に対して優しい仕組みになってない』という漠然とした感覚のもとに見つめてきてしまったからだと思います。事実、無料で公開され、消費されているコンテンツの中にもそれなりにうまくいっているコンテンツも存在します。ですから、AIR CONTENTSという概念の言い出しっぺである僕自身も具体的にどれが当てはまり、どれが当てはまらないのかという境界線を引きかねていたというのが本当のところです。


このブログを立ち上げてから、UGCに詳しそうな何人かの人にAIR CONTENTSという考え方——《“空気”のように消費されているユーザー主導のコンテンツ》を紹介したのですが、不思議なことに皆が皆全く違った見解を示してくれました。


ある人は、UGCの作り手のインセンティブはそもそも「作品が公開できること」にあると述べ、『それを通じたファンの人とのコミュニケーションに価値を見いだすことがコンテンツ制作である』と語ってくれました。そして彼らが最も嫌がるのは「作品外でのいざこざ」だそうです。つまり、作品に対するあらぬ批判や中傷、“信者”と呼ばれる一部熱狂的ファンの分別のない行動、またそれによって引き起こされるファン同士の対立や、制作者同士の関係の悪化などです。そういったいざこざに悩まされる彼らの心情は想像に難くありません。


『私はただ単にみんなに見せて楽しんでもらおうと思っただけなのに、どうして公開する前よりも面倒なことになるの?』


またある人は、『そもそもUGCは、その作り手がそのコンテンツが好きで好きでしょうがないから無料で公開されているのではなくて、ただ単に仲間内で好き勝手に作って好き勝手に消費されているだけ。だからマネタイズなんか出来るわけない』とも語ってくれました。


そしてまたある人は、『UGCが無料で消費されているのは確かに《ネットコンテンツにお金を払うという仕組みがない》からだが、だからといってそういった仕組みが出来たとして、皆がこぞってお金を投じるだろうか』と疑問を呈しました。『そういった理由も確かに一因ではあるが、本当に優れたコンテンツと、その価値の最大化を図る仕組みが欠落しているからこそUGCは今のような規模と質に留まっていて、“同人”の域を出ない』とも語ってくれました。


こういった話を聞いていくうち、僕は『なぜ同じ“無料の”コンテンツの話題なのに、人によってここまで捉え方が異なるのか』と疑問に思いました。そして、今までUCGという括りで語っていたネット上のフリーコンテンツは、「AIR CONTENTSとビジネスモデルの関係性について」で検証した以上に分岐しているのではないかと思い始めました。

  • フリーコンテンツの5分類


IT技術の発展により、コンテンツ開発のコストは限りなくゼロに近づき、インターネットの普及によりその流通コストもゼロになりました。そして、ネット黎明期の反体制・コミュニティ志向・利他的な空気のもとに、多くのコンテンツが無料で公開されてきました。確かにそれらの素晴らしいコンテンツが無料で公開されていることは非常に好ましい事態と言えます。そして、そういう性質をもった無料のコンテンツが(特に欧米圏を中心に)多く存在するということもまた事実です。しかし、今現在日本のUGCに於いて、全てのコンテンツがそういったイデオロギーの元に“無料”で公開されていると言い切れるでしょうか?


僕にはそうは思えません。僕たちは今まで本質的に性質が異なるコンテンツを“UGC”だとか“無料”というラベルを張って、大事な部分から目をそらしてきたのではないでしょうか。そして、その性質の差を無視してきたからこそ、UGCという括りの中でAIR CONTENTSと他のコンテンツを分かつ境界線が見えにくくなっていたのではないでしょうか。


そして、その違いを解き明かす鍵となるキークエスチョンが、


『なぜ、無料であるのか』


です。換言すれば、『コンテンツの制作者がどういった意図のもとにそのコンテンツを無料で公開しているか』ということであり、これは今現在のフリーコンテンツの議論に於いてあまり重要視されてこなかった(と個人的に感じている)テーマです。


ーー『だって、そもそもネット上にあるコンテンツが無料なのはアタリマエでしょ?』


そして、現在無料で公開されているコンテンツを、「無料である理由」をもとに5つに分類してみることにしました。これがどういう意味を持つのかということはもう少し後で説明します。


以下が、暫定的なネットの無料で利用されているコンテンツの5分類です。


1、「Google型」
2、「オープンソース型」
3、「ネタ型」
4、「アマチュア型」
5、「AIR CONTENTS型」


それでは、それぞれの簡単な解説をしていきたいと思います。


商品としての“無料”——「Google型」


Googleを始め、mixiGreeなどの企業が自社のサービスを無料で提供しているケース。自社のコンテンツを無料で提供することによって、本来デメリットでしかないはずの「無料」という性質をビジネス戦略として最大限に利用している。(後述)。


Changes for the better——「オープンソース型」


wikipedialinuxなど、ネット黎明期の反体制・コミュニティ志向・利他的な空気の元に大勢のユーザーが参加して、一つの大きなコンテンツが制作されるケース。


自分の作品が公開できるしあわせ——「アマチュア型」


個人が趣味で制作したコンテンツを無料で公開しているケース。このケースの場合、制作インセンティブは《自分の作品を多くの人に見て貰い、褒めて貰いたい》といったものであり、コンテンツ制作を通じてお金を稼ごうという意識がそもそも存在しない。


“お前ら”との作品の共有——「ネタ型」


主にコミュニティ内(仲間内)での“ウケ”を狙って制作され、「同じ志向性を持った仲間とコンテンツを共有すること」と「コミュニティ内での自分の立場の確立」に意味を見いだし、無料で公開されているケース。


No promise is in sight——「AIR CONTENTS型」


これについては定義そのものも後述します。


では順に解説していきます。


まず「Google型」。これは、いわゆる「広告モデル」です。自社サービスを無料で提供することでユーザーを集め、その“無料”を商品に広告代理を行うという、ネットコンテンツのビジネスモデルの二本柱のうちの一つです。ちなみにもう一つは「課金モデル」で、基本使用料は無料のかわり、アバターのようなオプションに別途料金がかかるというタイプです。ネット、もしくはモバイルコンテンツ事業者は、主にこの二つで収益を上げていて、この二つの両立が優位なビジネス展開の鍵と言われています。SNS大手三社(mixiGreeDeNA)の中で、DeNAが比較的に高収益であるのも、DeNAが広告収入と同規模の収入を課金モデルから得ているからです。(ネットコミュニティ白書2010より)


次に「オープンソース型」。Wikipediaなどに代表されるような、《明確な制作者が存在しない、大きな一つのコンテンツ》の事を指します。ユーザーが制作者で制作者がユーザーという構造のもと、それぞれが利他的にはたらく協同的なコンテンツです。編集者の数でコンテンツの質と規模をカバーするため、利用に関してお金をとるというモデルは逆に自らの首を絞めかねないため、基本的に採用されないようです。


さて、次に「アマチュア型」と「ネタ型」について。これら二つはかなり近い位置にあると言えますが、その正確な差異はこの議論であまり重要でないので軽く解説します。


まず「アマチュア型」のケースの場合、制作者は自分の作品に対して大きくコミットしているといえます。つまり制作することそのものに意味を見いだしているということです。対して「ネタ型」の場合、制作者にとって作品は同じ志向性を持ったコミュニティ内でのコミュニケーション媒体として機能しています。彼らはもちろん制作を楽しんでいない訳ではないのですが、それよりもむしろ『これを公開したらどんな感想を貰えるだろう?』というコンテンツを通じてのコミュニケーションにインセンティブがあるのではないかと僕は解釈しています。これはまったくの私見ではありますが、ニコニコ動画などにおけるいわゆる“元ネタ”へのレスポンスなどは、純粋なコンテンツ制作を営んでいるというより、1次的な媒体を皆で改変し、共有し、それらのコンテンツによって媒介されるコミュニケーションを楽しんでいるように思えます。つまり、このケースはMADや版権イラストなどに代表されるUGCのN次創作的特徴がとくに顕著に表れています。


上記の『UGCはそもそも仲間内で好き勝手やっているだけのことであってマネタイズなんてできるはずない』という意見について、おそらく彼にとってのUGCは「ネタ型」だったのでしょう。このタイプは基本的にマスに向けてではなくて始めからニッチに向けて制作されているので、一般的なコンテンツが好きな人にとっては敬遠されがちのようです。そして、上記で『UGCの制作者のインセンティブは作品の公開にある』と意見をくれた人は、おそらくこの「アマチュア型」の人なのだと思います。その意識が表れているのが『UGCの制作者が一番嫌うのは作品外の“いざこざ”』という言葉です。

  • 今そこにある境界線


本来コンテンツ制作において、作品外での“いざこざ”は不可避です。クリエイターは自らの感性と主張を作品にのせてマスに発信するわけですから、当然なんらかのレスポンスを求めてはいるわけです。どんな優れた作品であろうとレスポンスの中には批判と賞賛が入り乱れているように、“いざこざ”も含めて“コンテンツ制作”という作業なのですから、それらが完全に無くなることは決してありません。


そして、これに関してもう一つ。UGC文化の発展によって“プロ”と“アマチュア”の境界が曖昧になっているということはよく言われることですが、果たして本当にそうでしょうか?


僕は、UGC文化の発展は“プロ”と“アマチュア”の差の所在に変化をもたらしたのであって、その境界線を完全に消してしまったわけではないと考えています。今まで両者を分けていたのは、ときに“才能”などと呼ばれる技術的なレベルの差でした。しかし、ことコンテンツに関してはデジタル技術の革新によって個人でも高クオリティの作品が制作できるようになり、そういったテクノロジカル・ディバイドで「プロ」と「アマチュア」を分けきることは困難になりました。結果として、テクノロジカル・ディバイドによって覆い隠されていた本質的な両者の違いがあらわになった。


それが「制作者のプロ意識の有無」です。


「アマチュア型」の人たちが作品外の“いざこざ”を避けようとする理由ーーそれはひとえに彼らの中での「プロ意識」の欠如に起因します。プロのクリエイターは自分の作品に金銭的対価を求める以上中途半端な仕事はできませんし、消費者にお金を払って貰っている以上彼らの批判や意見、自分の作品が人々に与えた影響などの「作品外の出来事」も真摯に受け止めなくてはいけません。


しかし、UGCにおいて個々の制作者の技術力のばらつきを度外視しても、彼らの殆どが先ほど述べた《自分の作品を多くの人に見て貰い、褒めて貰いたい》といった理念のもと、アマチュアとして活動しているわけですから、彼らにとって“いざこざ”はまったく想定外のことなのです。自分の作品に自分の望んでいなかったレスポンスがあった時彼らはこう感じるでしょう。


『好きでやっていて、お金を要求しているわけでもないのに、何で批判されたり馬鹿にされたりしなくちゃいけないの?』


これが今現在「プロ」と「アマチュア」を決定的に分かつ境界線です。そしてこの問題ついて参考になるのがkude氏の文章です。

個人的には、UGC(ユーザー生成コンテンツ)やCGM消費者生成メディア)というものは、コンテンツビジネスの延長線上ではなく、サークル活動の延長線上で捉えたほうがしっくりくるような気がする。


かつては半径何メートルかの同好の士によって行われていたそれらの活動が、インターネットによって、『メディア』と呼ばれるまでの大規模なものになった、と。


UGCCGMをサークル活動(の成果物)として捉えれば、それをビジネスに乗っけるのがいかに難しいことか分かる。
サークル活動を事業化しようとしても、「自分はサークル活動という気楽さが好きなんだ」と反対するメンバーが必ず現れ、挫折するに違いない。


文化祭の模擬店のように販売するところまでをサークル活動とすれば(同人誌活動なんかは、こうした感じが強いのかな)、多少はビジネスに乗っけられるだろうけど、これだって基本的には「儲けは二の次」の域を超えないだろう。


なので、コンテンツビジネスとしては、自由にサークル活動をさせておいて、そこから生まれる成果物の中からこれはというものをピックアップして商品として販売するという、つまりは現状のやり方以外に手はないように思う。


ということで、個人的には、UGCCGMにコンテンツビジネスの未来を期待するのはやめておいたほうがいいだろうと思っている。


「そこ」にクリエイターもコンテンツも存在せず、JASRACモデルも通用しないのは、「そこ」がビジネスの場じゃないからだろう。


どうにかして「そこ」を商業地として開拓したい気持ちはわかるけれど、「開拓したら土地が枯れた」なんてことになったりしてね。


そんなことよりも、「これからの時代、プロの作品をいかに売るか」というところを真正面から考えることでしか、コンテンツビジネスの未来は切り開けないだろうとぼくは思う。

ーーadapted from http://kude.exblog.jp/9983448


Kude氏は、『今現在騒がれているUGCという現象も、結局のところ“同人サークル活動”の延長戦でしかないわけだから、そこにビジネス市場を見いだすことは出来ない』と述べています。そして中盤以降、『「アマチュア型」のUGCを商業化しようとすれば、思わぬ事態を引き起こしかねない』と警鐘を鳴らしています。



個人的に「ネット発リアルへ」のコンテンツが中々生まれてこない原因の一つがここにあると思っています。「アマチュア型」の人たちの作品を見たメジャーレーベルのスカウトマンが『ウチで働いてみません?』と誘ったとしても、恐らく彼らは二つ返事をしないはずです。何故なら、彼らにはコンテンツ以外の実生活があり、それを天秤にかけてまでコンテンツと付き合っていこうという覚悟がないからです。彼らの中にコンテンツとは趣味として付き合っていきたいという「選択的アマチュア意識」がある以上、そこにビジネスを見いだすことは難しいでしょう。なんといっても、彼らは“素人”なのですから。


また、「アマチュア型」の商業化に関してニコニコ動画で活躍している「わかむらP」のインタビュー記事も参考になります。


わかむらP 

「歌ってみた」やVOCALOIDの人も、みんなニコニコでは収入ゼロでやってるじゃないですか。そういうところに、たとえば「CDにしませんか」「DVDにしませんか」という話がいったとき、たぶん相場を知らない人たちがいっぱいいるんですよ。で、そういう人たちがたくさん出てきたときに、業界自体のダンピングが起きる可能性があるな、と思っていて、それがぼくは最近すごく気になるんです。ニコニコ世代のクリエイターが羽ばたいたとき、それまでゴハンを食べられてきた人たちが食べられないようになってはいけないと思うんですよね。先駆の同業者に迷惑をかけるのは良くない。それは「値引き」とか「デフレ」ってこととは意味が違いますから。


プロは、自分の価格をこれ以上絶対に落としちゃいけないラインを持っているものなんですね。それはもちろん時間がかかっているから、その時間に対しての請求をしなきゃいけないというのと、会社の場合は、その会社を維持するためにもお金が必要だから。個人で動画制作をするなら、ソフトやPC、住んでるところの家賃なども含めた全部で回ってるわけじゃないですか。で、そのときに例えば5分の動画を1万円でいいですよ」と受ける人たちが出てきちゃったりすると、そこが成り立たなくなってくる。ニコニコで名前が売れるとそういう商業的な話もあったりするので、その時、そこだけはみなさんお気を付けになってください。


——業界が崩壊したあとじゃ遅い。


わかむらP 

そう。それに業界が崩壊しなくても、ニコニコ上がりの新人はその価格でいいんだ、という暫定レベルになったとしても、その人たちがいつちゃんとした給料をもらえるようになるの?という、結局は自分のクビを締めることになりますよね。だから音楽を本気でやりたいと思ってるんだったら、本当にちゃんとした金額を請求しないとダメなんです。最初は新人金額でもいいんだけど、いつまでもニコニコ価格とか、タダでいいや、とかやっていると、本当に痛い目を見ると思うし、どんなに売れてもバイトしながらじゃなきゃ音楽できなくなるとか、そういう悲惨なことになるので。


adapted from http://www.cyzo.com/2010/01/post_3593.html


わかむらP氏はプロのクリエイターながらニコニコ動画で活動しており、現在の「アマチュア型」UGCの商業化に関しての問題点を指摘しています。特に僕が注目したのは、彼らのコンテンツを商業化するにあたって、その「アマチュア意識」は最終的に“プロ”業界にダンピング(不当廉売、必要以上に安い値段で商品を売買すること)を引き起こすのではないか、という点です。これはかなり説得力があるなと思わず感動しました。僕は前の記事で、『消費者がUGCに流れていくプロセスで「消費態度の変化」が現れる』と書きましたが、まさにこの問題と直結していると感じます。


消費者がUCGに流れていく理由は、ハイクオリティの作品が無料で公開されていて、その制作者との距離が密接だからなのでしょう。そして、それは先ほども述べたように、テクノロジカル・ディバイドが消え、質の高いコンテンツが「アマチュア意識」ーー《自分の作品を公開したい》のもと公開されているからです。しかし、よくよく考えてみれば、そのようなハイクオリティな作品が無料で公開され続けていることは奇妙なことです。


しかし、僕はこの状況は肯定的なスタンスで捉えています。これは一見「ゼロ年代最後の日に」で述べた「無責任な消費態度」についての議論と矛盾しますが、「アマチュア型」において制作者と消費者の間に単純な《見て貰いたい》→《見たい》という関係がなりたっている以上、“空気”ように消費されているとは言い切れません。僕は以前、UGCの制作者はみな「アマチュア型」や「ネタ型」ではないと考えていました。しかし、制作者と消費者の関係性も多様であることが見えてきた今、事情が異なる彼らの領域を侵すことはかえって好ましくないと思い直しました。お許し願います。


ですが、わかむらPが指摘するように「アマチュア型」「ネタ型」のような消費形態が恒常的になってしまうと、消費者の間に『このクオリティの作品が無料で公開されているのだから、これと同じくらいの作品にはお金を払う必要はないんだな』という消費感覚(もしくは金銭感覚)が根付いてしまう恐れがあります。それがわかむらPの指摘している「暫定レベル」なのだと思います。このタイプにおける消費感覚(もしくは提供感覚)が一般的になってしまうと、「コンテンツにお金を払う(請求する)」というビジネスモデル自体が崩壊する危険性があります。これは消費者にとってみれば好ましい事態なのかもしれません。しかし、UGCを越えたコンテンツ産業を考えたとき、お金が回らないビジネス市場に果たして未来はあるのでしょうか?もちろんクリエイターや関係職についている方々の生活の問題もそうですが、何より僕たちが本当に「おもしろい!」と言えるコンテンツ、つまりコンテンツの質は保証されうるのでしょうか。事実、お金をかければ良い作品が出来るとは限りませんが、お金(もしくは労働力)がかかっていない作品がキラーコンテンツになることはまずありえません。ここでは、金銭的対価がコンテンツの質とマス消費に少なからず 影響を持っているということを強調しておきます。


そして、最後の「AIR CONTENTS型」の解説に移ります。今現在、いわゆる“UGC”であると言われるのは恐らく上記の「ネタ型」「アマチュア型」の二つでしょう。そのような背景も相まって、UGCの商業化に関しては否定的な意見が為されています。僕も「ネタ型」「アマチュア型」のUGCを商業化する事は困難だと思っています。業界側の事情で“無理”という事ではなくて、彼らの中に「プロ意識」がなく、今のような流儀に居心地の良さを見いだしている以上、(僕もそうです)わざわざ商業化する必要性がないということです。それでも商業化を狙うメジャーレーベルは話題性と一時的な利益のために、彼らを搾取源として囲い込もうとしています。初音ミクの合同アルバムが出版されるとき、楽曲の著作権および著作隣接権はどうなっているのでしょうか?非常に気になります。


このようなネガティブな議論を続けてきましたが、果たして、WEB2.0で花開いたUGC/GCM文化は現時点で行き詰まり、サークル活動の延長で止まってしまうのでしょうか。


僕はそうは考えません。なぜなら、「アマチュア型」と「ネタ型」に埋め尽くされつつあるUGCの中にも、そう分類すべきでないコンテンツが確実に存在していると思っているからです。今まで、「ネット発リアルへ」のビジネスモデルは、《「アマチュア型」でデビュー》→《メジャーレコードが青田刈り》のただ一つでした。最近では「アマチュア型」の制作者、もしくはコミュニティサイトが主催するイベントなどもあるようですが、“ビジネス”か、と言われるとやはりそうではなくて、本当に乱暴な言い方だと思うのですが、“大規模なサークル活動”なのだと思います。技術的な問題より、意識的なところとして。何より彼らはそういった付き合い方をこれ以上なく楽しんでいるのですから。

  • AIR CONTENTS型とは


ネットの出現とWEB2.0が現実世界にもたらした一番の影響。それは梅田望夫氏がよく口にする「個のエンパワーメント(強化)」です。今まで自分の技能や主張を披露する場所に恵まれず、現実世界の大資本に従属せざるをえなかった個人が、ネットによって自分の可能性を高める機会を手に入れた。まさにここにあるのだと思います。


では、ニコニコ動画、pixiv、ピアプロなどに見られるUGCムーブメントには、その特徴は表れているでしょうか?


僕はあまりそう思えません。もちろん彼らを否定するわけではなくて、そういったWEB2.0的特性を最大限利用した上に発展してきたのか、と考えたときに、その発展を支えたのはユーザー間のコミュニティ意識と大多数のアマチュア意識であって、エンパワーされた個の力ではなかったのではないか、ということです。ネットというインフラを利用して、個人、もしくは少数で革命的なコンテンツ制作をしてきたクリエイターをUGC文化に見いだすにはあまりにも少なすぎます。そして、メジャーレーベルがことごとくUGCの商業化に失敗してきたのも、「アマチュア型」「ネタ型」UGCの表面的なクオリティばかりに注目し、制作者の意識的な部分を見落としていたからです。


しかし、これから必要になってくるのはネットを最大限利用して自分自身をエンパワーメントし、UGCキラーコンテンツたる作品を制作してくれるクリエイター、すなわちCreator of AIR CONTENTS(CoA)の人たちです。さんざん後回しにしてきましたが、ここでやっと「AC型」の定義をします。「AC型」とは、


《少なからず「プロ意識」を持ち、コンテンツを通じての自己実現を目標にコンテンツを制作し、インターネットで無料で公開している人たち》


の事を指します。先ほどの「アマチュア型」の議論でたとえ話としてスカウトの話を出しましたが、あの例で「アマチュア型」の人たちは乗り気にならないと述べましたが「AC型」の人たちは恐らく『しめた!』と思うはずです。もっと分かりやすいイメージを挙げるとすれば、「AC型」の人たちは「アルバイトで生計を立てながらオーディションを受けている劇団員」です。彼らCoAは、「趣味としてバンドをやっているサラリーマン」である「アマチュア型」の人たちとは明らかに異なっています。技術的なレベルではなくて、意識的なレベルで。

  • コンテンツ価値の最大化という考え方


では、何故そういったCoAは商業デビューしてこないのでしょうか?


もちろん、既に述べたようにUGCが「ネタ型」「アマチュア型」に埋め尽くされていて、意識的なレベルでの「AC型」の見分けがつきにくいという点も上げられます。これは「ゼロ年代最後の日に」で述べたとおり、「AC型」のUCGは「ネタ型」「アマチュア型」のUGCに混ざっているので、消費者の目には区別がつかず、その消費のされ方も変わりません。だからこそ才能あるCoAがどんどんネットを去ってしまいます。


しかし、もう一つ原因があるのではないでしょうか。それは、「コンテンツ価値の最大化が為されていない」という点です。そもそもコンテンツとはどのような時に一番いい働きをするのでしょうか。それは、より多くの人に向けて発信され、享受されているときです。ここでコンテンツとは「メディアを通して表現され、人に何らかの働きかけをする情報的な作品」と簡単に定義しておきます。UGCは基本的にユーザー投稿サイト、もしくは自作サイトのみで公開されています。しかし、リアルのコンテンツビジネスを見れば、コンテンツの収益構造の基本は2次利用。映画の例を挙げれば、劇場興行→雑誌特集→タイアップ商品の発売→各種パッケージ販売→サントラ発売→ムック本発売→TV放送→海外への権利売買…と、一つのコンテンツの価値を最大限に利用して成り立っています。この過程で多くのユーザーと収益を獲得していく訳です。映画などは、劇場公開だけでは製作費の回収など到底出来ません。しかし、今現在、ニコニコ動画で人気の作品の再生数をみても、多くて100万再生。1ユーザーが10回リピートするとすれば、ユニークユーザーは10万人。もっと少ないかもしれません。これはひとえにコンテンツ価値を最小限にとどめてしまっているからです。動画サイトで一時的に話題になったとしても、とてもリアルのコンテンツと肩を並べることは出来ません。


「ネット発リアルへ」がなかなか表れないもう一つの理由は、未だにWEBから「リアル」という広大な市場において、マスに通用するコンテンツが生まれてきていない点に集約されそうです。今のようにコンテンツ価値を最小限に抑えてしまうスキームでは、プロ(志向)意識のあるAIR CONTENTSですら“同人作品”としか見られないままですし、今現在UGCの殆どが二次創作で賄われているように、それらはマスに通用する一次コンテンツ(テレビアニメ、週刊誌でのマンガ等…)への従属を意味します。『私たちにはあなた方のような作品を作る力はありません』と。WEBを通じて本気でコンテンツを制作し、“プロ”としての活動を目標に掲げるのであれば、週刊誌に連載されてもおかしくないレベルのマンガ、平積みされていたら思わず買ってしまうレベルの小説、テレビで放送されていても遜色ないレベルの映像を“こちら側”からリアルへ発信していく必要があるのだと思います。プロの小説家を志す若者をして、『小説大賞に応募なんかするより、ネットで活動した方が断然いい』と言わしめんインフラが出来れば、今よりもっともっと面白い作品が出てくると僕は思っています。


また、出版社の未来とクリエイターのフリーランス化についての議論で、編集家の竹熊健太郎氏は次のようなことを述べています。


しかし、その場合「出版責任」は誰がとるのか、という問題が残ります。むろんそれは著者一人が背負えばよいと考える人もいるでしょうが、現実問題として、自分の書いた(描いた)ものに、本当の意味で最後まで責任を負える著者が、どれだけいるというのでしょうか。


「自分の発言や作品に責任を負う」ということは、生やさしいものではありません。ざっと考えても著作権問題や猥褻問題、名誉毀損、果ては「おまえの書いた●●という登場人物は俺だろう。おまえのパソコンで俺の脳波を毎日読み取って書いているんだろう」なんていう「電波」を受信する人の相手まで、場合によってはしなければならないということです。


日本は言論の自由憲法で保障されてはいますが、多くの場合それがタテマエに過ぎないことは、本を書いて出版したことのある人ならおわかりかと思います。たとえば普通に出版社が介在する本の場合、版元の編集者が、本の内容にうるさく口を出してきますが、これは、


(1) より売れる本にするため。
(2) 内容に出版社としての責任をとるため(出版責任を著者と分担する)。


という、主にふたつの理由で、そうしてくるわけです。特に重要なのが(2)でして、校正・校閲を含めた内容のクオリティ管理だけではなく、その内容に対するクレーム対応(著作権侵害、猥褻関係、名誉毀損その他)などのリスク管理も入ってきます。もちろん原理的には、著者がすべての責任を負う形で自由な内容の著作物を出版(公開)することは可能です。しかしその場合は「著者=編集者=出版社」ということになります。これの意味は、自分の著作を公開することによって生じるすべての責任(クレーム処理を含む)を「個人として」負わなければならない、ということであります。


adapted from http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-9fd2.html


出版社やレコード会社など、クリエイターを雇う側の存在(メディエイター)はしばし、中間搾取層として批判されたりもしますが、事実竹熊氏の指摘するように「編集責任」を持ってくれたり、自誌掲載や売り込み、仕事の斡旋などの「メディア」としての大きな力を保有していたり、新人クリエイターの発掘、育成を引き受けたりと、「コンテンツの価値の最大化」に関して彼らは誰よりもエキスパートだといえます。ですからACを本当に息の長いビジネスモデルにすることを考えたときに、《誰がどういった形でACをメディエイトしていくのか》という課題は残ります。ですから、僕は「AIR CONTENTSの価値の最大化を図るメディエイター」がこれから必要になってくると考えています。


それがどのようなカタチになるのか、まだ想像できません。ですが、その前に僕たちがやらなくてはいけないことは、CoAの人たちが既存のUGCムーブメントに飲み込まれて、正当な評価を受ける機会を逃していると言うことを認識することです。


そして、AIR CONTENTSを論じる際に、まず提示しなくてはいけないのに未だに提示できていない「具体例」を見つけること。『本当にそんな人達いるの?』と一蹴されてしまえば全く言い返せません。


そういうわけでAIR CONTENTS当面の目標はCoAの存在の確認ということになりそうです。その為にはUGCムーブメントを牽引するクリエイターの方々に色々お話を伺う必要があることは間違いないと思うのですが、果たしてこのような怪しいブログの取材に答えてくれる人達はいらっしゃるのか…。


まだまだ、AIR CONTENTSの体系化は先になりそうです。

AIR CONTENTSバージョンアップのお知らせ。

えーと、AIR CONTENTSの定義について、前の記事でAIR CONTENTSは多くの意味を持つと述べていたんですが、どうもそれだとややこしい上にこのブログの趣旨が見えにくくなるのでAIR CONTENTS-2という区分ではなく、単にAIR CONTENTSという考え方にオープンソース的なフリーコンテンツは入らないよ、ということにしておきました。


それで、いい機会だと思ったのでこのブログの進行度というかAIR CONTENTSという考え方の発展率をverで表すことにしました。

前から何となく思ってたんですけど、このブログに投稿されている記事って論文ちっくだけど実のところチラシの裏で、論理に一貫性がないと指摘されてもおかしくないような気がしてたんですよね。


そんで、あまり論文めいた感じで記事を書きすぎるといつか絶対論理破綻を指摘されて面倒なことになるなーと思ったので、じゃあ逆に「論理破綻」と書いて「バージョンアップ」と読ませてしまえばいいじゃないかと思ったわけです。


そもそもUGCという分野自体、まったく体系化の目処が立っていないんだから、手探りでオーガナイズしていかなきゃいけないと思うんですよ。だから、そういうバックグラウンドを最大限利用して、僕はAIR CONTENTSっつー考え方を体系化する作業をこのブログで公開していこうかなーと。


実を言えば言い出しっぺの僕ですらAIR CONTENTSの明確な定義を掴みかねている部分は全然あるわけで。むしろ、それをよりラウンドしてく作業が一番面白いんですよね。


だからこそ、このブログはそういう作業の報告場所として利用していきたいと思っています。そういう意味で作業率をverで表していくのも中々面白いかなと思ったり。


んー。そんな感じですかね。こういう個人的な記事もこれから書いていこうかなーとも思っているのでもしなんか取り上げて欲しい話題があればtwitterで言って下さいね!

「AIR CONTENTS」とビジネスモデルの関係性について

あけましておめでとうございます。当ブログ運営のけろっぴです。


さて、先日載せた「AIR CONTENTS」という考え方についてですが、その後、AIR CONTENTSーー《”空気”のように消費されているユーザー主導のコンテンツ》という定義では、あまりにもアバウトすぎると感じたので、今回はそれについての解説と、フリーコンテンツの違い方などを考察していきたいと思います。

  • UGCというくくりは乱暴である


UGC”と呼ばれるモノたちは、本来その特質がばらばらであるのにも関わらず、僕たちはインターネット上の“UGCらしきもの”をひとくくりに「ユーザー生成コンテンツ」と呼んでいるがゆえに、様々な不都合が生まれているように思えます。


その最たる例が「wikipedia」と「pixiv」が同じUGCという括りに入れられていることです。何故なら、両者とも《素人がコンテンツを制作している》という点のみが注目され、あたかも全く同じタイプのサービスだと認識されているのは大いに問題があるからです。


確かに、今までコンテンツを制作するのは企業やプロフェッショナルの仕事であって、僕たちの役割は飽くまでも「消費者」でした。ですから、ゼロ年代以降その構図が変わってしまったことは極めて大きな変革であり、声高に強調されうる事柄であることは間違いありません。しかし、ネット関連の議論で度々言及される「次の10年」はもう始まっており、いつまでもゼロ年代web2.0議論は時代遅れだと言わざるを得ません。


さて、話が少しずれましたが、ここで僕たちが主張したいのは、《「wikipedia」と「pixiv」は本質的には別物のコンテンツである》ということです。誤解して貰いたくないのですが、ここでの両者は飽くまで記号的(分かりやすい)な例あり、ここで重要なのは「AIR CONTENTS」の議論の中で、両者の区別があるとないとでは、「AIR CONTENTS」という考え方が「wikipedia」にも適用されてしまい、その意味合いに齟齬が生じてしまうということです。

  • 両者の差異とは何か


ネットコンテンツの議論の中で、「wikipedia」がしばしばweb2.0的なコンテンツの代表として取り上げられてきたのは、その「オープンソース」と呼ばれる性質に注目が集まっていたからです。これはかなり一般的になっている考え方ですから、あまり説明はしませんが、つまり《中心が存在せず、個々人が根のようなもので繋がっていて、個々人が発信者である》という考え方ですね。この考え方は、時代によって呼び方は違えど古くから唱えられてきた考え方です。ゼロ年代にこの考え方に注目が集まったのは、インターネットが存在しなかった時代に於いても当時の社会学者や哲学者の中にそういった考えを抱いていた人たちが存在していたからでしょう。


では、なぜオープンソース型コンテンツが「AIR CONTENTS」に含まれると不都合が生じるのでしょうか。


理由は簡単。厳密に言えば「wikipedia」と「pixiv」はコンテンツにとしての性質が異なるからです。


wikipedia」や「Linux」で制作されているコンテンツは、コンテンツとして「客観的」な性質を持っています。ここで「客観的」とは、全体として進むべき方向や共有されている価値観などが独立して存在している状態を指します。何故そういえるかというと、それは、ユーザーが制作しているコンテンツが基本的には一つであり、その基本理念が《利用者にとって平等に便利なモノを作る》――と僕たちは解釈していますが――であるからです。だからこそ、先ほど述べたその「オープンソース」という特性が有効に働いているのです。


それに対して「ニコニコ動画」や「pixiv」で公開されているコンテンツは、コンテンツとして「主観的」な性質を持っています。ここでいう「主観的」とは、ユーザー間に絶対的な価値観が存在せず、相対的に良い悪いが評価されうる状態を指します。ですから、ここにおいて「オープンソース」という考え方は一般的には適用されません。ユーザーが個々に別々のコンテンツを制作しているので、何が良く何が悪いかということの判断をつけられないからです。


客観的なコンテンツで評価されるべきはユーザーの協力によって制作され出来上がった一つの(大きな)コンテンツそのものなのですが、主観的なコンテンツで評価されるべきは数多くの(小さな)作品とその作者であるのです。


以上の議論をまとめると、両者の最も明白な違いは《明確な制作者がいるかいないか》だといえるでしょう。

  • 2ch」型コンテンツは絶対的モデルではない


インターネット上で“嫌儲”という考え方が根付いてしまったのも、上記の二つの全く性質が異なるコンテンツを“UGC”と一括りにしてしまったからです。とくに“嫌儲”が顕著に見られる「2ch」は、上記のような分類をするとすれば、間違いなく客観的なコンテンツです。これは恐らく反論されると思います。何故なら、「2ch」こそheterogeneity(異種混合)、分かりやすく言えば“カオス”すなわち「主観的」で雑多な物事の象徴だったからです。しかし、「2ch」のコンテンツは具体的にはなんでしょうか。スレッドでしょうか。だとしたらその制作者は誰でしょう。立てた人でしょうか。ならば、「2ch」のコンテンツ制作者はスレッドを立てた人という事になってしまいます。でもそうではありません。「2ch」のコンテンツが何であれ(これはこの議論では重要ではありません)、そこには明確な制作者は存在していないのです。


ですから、そのコンテンツがマネタイズされるとき、儲かるべき人が定まらず、結果として、『お前が儲かって俺が儲からないのは気にくわない』という考え方が生まれます。そういう考え方のもとに、僕たち消費者は《インターネットのコンテンツは全て無料であるべきである》と感じてしまうのです。付け加えるとすれば、《お金がからまないからこそ自由闊達な表現が可能》という考え方の浸透でしょうか。これは先の「AIR CONTENTS」についての記事に於いて触れたのでここでは言及しません。


ですが、やはり《無料である必然性があるコンテンツ》と《正当に評価される必然性があるコンテンツ》は区別されるべきなのです。

  • AIR CONTENTS-2」


以上の議論から、「AIR CONTENTS」は、《“空気”のように消費されているユーザー主導のコンテンツ》ーー特に《明確な制作者が存在し、正当な評価を受ける必然性があるコンテンツ》の事を指します。一番初めに述べたように、「wikipedia」と「pixiv」が同じ意味合いの「AIR CONTENTS」で使われてしまうと、『wikipediaの記事を執筆した人も正当に評価されるべきだ』という主張が為されてしまうのです。


しかし、実のところインフラ(もしくはメディア)のレベルで話をすれば、「2ch」も「ニコニコ動画」も同じジャンルに分類できるのです。そのジャンルこそ、「オープンソース」です。これは先ほどの議論と一見矛盾していますが、どちらも、コンテンツ制作をユーザーになげうっているため、基本的に仕組みは変わらないのです。しかし、コンテンツのレベルで話を進めると違いが生まれる。その違いが――これも先に述べましたが――明確な「制作者」の有無です。制作者がいない「2ch」は包括的に“2chという掲示板サイト”自体がコンテンツと言い張ることが出来ますが、個々の制作者が存在している「ニコニコ動画」は“ニコニコ動画という動画投稿サイト”自体がコンテンツだとは言えません。


ですから、両者はメディアについての議論であれば「オープンソース」という括りに入れて間違いはないのですが、コンテンツについての議論では同じ括りには入り得ないのです。

  • サービス形態の違いは課金形態の違い


ですから、今現在の「AIR CONTENTS」に基づいているサービスが、自社のサービスをそうでない「wikipedia」のように扱ってマネタイズしようと考えていることは効率的ではありません。つまり、「ニコニコ動画」や「pixiv」のようなサイトと、「2ch」や「wikipedia」のようなサイトは、マネタイズの方法も異なるべきなのです。


例えば、後者はサイトそのものがコンテンツで“ありえる”のですから、利用(閲覧)に際してお金を払うというモデルがどちらかというと適しています。実生活でいえば、「ジム」や「テーマパーク」でしょうか。しかし、前者のサービスは、サイトそのものがコンテンツではないので、今のような登録料を徴収するモデルは非効率的だと言わざるを得ません。むしろ、月額制などではなく、基本的な使用料は無料でいいのではないでしょうか。そして、《消費者からクリエイターへの支援の何割かが企業に入る》ようなモデルも全く「あり」だと思います。


今のようなモデルは、例えば、出品が自由の美術館の入り口に”一般用””VIP用”の入り口があって、お金を払えばVIP口から入ることができて、一般用より近くで絵を見ることが出来るが、絵の品質は保証されていない、という奇妙なモデルです。


であれば、入場は無料で、出品も無料、閲覧に関して有利不利は存在しないが品質は保証されない。しかし、その中の自分の気に入った絵の作者にカンパを行え、そのカンパの1%が「美術館」に入る、といった仕組みはどうでしょう。


いかにも“嫌儲”が『俺のカンパはひいきのクリエイターにしているのであって、別にお前らにしてるわけじゃない』と顔をしかめそうな手法ではありますが、いい加減僕たち消費者も、《その場所を企業が無料で提供しているという事自体が優れたコンテンツの大前提――メタコンテンツであり、それこそ信じられないくらいお金がかかっている部分》だということを認識すべきでしょう。


だから、むしろ、これから企業が勝負すべきなのは《どうやって利益を上げるか》や《どうやってコンテンツの質を保証するか》などに先んじて《いかに他に変わりがきかないようなメタコンテンツ(メディア)を提供するか》という点なのだと思います。UGCを専門に扱うサービスなのであれば、コンテンツ生成はもうユーザーに任せてしまって、企業はメタコンテンツの向上を図るべきです。つまりは、サービスの向上です。


本来サービスと言えば、ユーザー目線からの差別化でしたが、UGC分野は、ユーザーでも、「提供者」と「消費者」が存在するわけですから、それら両方に対して魅力的なサービスを提供すべきです。ブログを例に挙げましょう。ブログサービスは基本的に書く人(提供者)目線のサービスとして作られています。例えば、本来面倒なハズのHTML構築を、ボックスに文章を書き、ボタンを押すだけで公開できるといった機能のファシリテーションのことです。


しかし、読者(消費者)に優しく設計されているでしょうか?


ブログは基本的に読者にとってはWEBブラウザで眺めるものであって、重要なのはコンテンツ(文章)だと捉えられがちです。だから、ブログの外観自体はあまり重要視されていません。しかし、すごく小さな事ですが、PCから見た時と、携帯から見た時に見やすさが変わらないような工夫は、消費者目線のサービスでありますし、これ以上なくメタコンテンツです。


具体例を挙げましょう。amebaが開始した「amebaなう」です。


http://japan.cnet.com/interview/story/0,2000055954,20405975,00.htm


詳細は読めば分かりますが、amebaはblog分野でも、芸能人とタイアップすることによって、他のブログサービスとの差別化を図っています。有名芸能人をつぶやかせることによって、(その芸能人がtwitterをやっていなければ、特に)『このサービスを始めないと読めない』という、消費者目線のメタコンテンツをうまく作り出しています。


これからの10年は、コンテンツと並んでメタコンテンツ(必ずしもメディアでない)の構築と向上は企業にとってますます重要になっていくでしょう。メタコンテンツの確立はうまくやれば直接マネタイズに繋がりますし、UGC分野では「AIR CONTENTS-1」のクリエイター達の活動も活発となり、結果的にコンテンツの質の向上が見込め、好循環の生成が期待できます。

  • 終わりに


さて、随分、というか今までで恐らく最長の文章になってしまいましたが、「AIR CONTENTS」という考え方をビジネスモデルと絡めて論じてみました。


ではでは。

ゼロ年代最後の日に。


皆さんこんにちは。当ブログ「AIR CONTENTS」の運営、けろっぴです。当ブログのタイトルともなっている「AIR CONTENTS」という言葉、皆さん聞き覚えがないと思います。それもそのはず、この言葉は僕たちが提唱する新しい考え方だからです。この記事では「AIR CONTENTS」とはどういったモノなのかを簡単に説明していきたいと思います。

  • ネットに浮かぶコンテンツの雲


「コンテンツ」という言葉自体は皆さんに馴染み深いのではないでしょうか。漫画、アニメ、映画、ゲーム、音楽、演劇…。どれも僕たちの生活を彩り、楽しくしてくれるものばかりです。もしアニメが見られなくなったら…。もし音楽が聴けなくなったら…。そんな生活つまらないですよね。それだけ、コンテンツは僕たちの生活に欠かせない大切な文化となって浸透しているのです。インターネットが普及し始めて約10年が経ちました。その間、ネット上には今までに無かった、全く新しいコンテンツがたくさん登場しました。


ニコニコ動画
・pixiv
vocaloid
mixi
・fg


皆さんも日々利用しているのではないでしょうか。
実は、これらにはある共通点があります。


それは、《みんなが作品を投稿し、みんなでそれを見て楽しむ》という点です。

  • UGCという考え方


ゼロ年代に誕生したこれらのユーザー主導のコンテンツは一般的にUGC(ユーザー生成コンテンツ)と呼ばれ、インターネットコンテンツの主流となりつつあります。《仕事には出来ないけど、好きだからやっている》人たちにとって、インターネットはうってつけの場所だったのです。


昨今、雑誌やテレビのコンテンツの凋落が叫ばれる背景には、インターネット上にあるこれらのUGCの存在があります。UGCは、その大半が無料であるにも関わらず、プロ顔負けの作品が数多く存在します。はじめは、作り手が自分の作品を大勢の人に見て貰える場として、インターネットはまさに理想郷でした。しかし、その存在がだんだん公になるにつれて、今度はその作品を見る側――消費者の心境に変化が現れます。


そして、その原因は《何故これ程雑誌やテレビが凋落しているのか?》という問題の原因とかなり近い位置にあります。


コンテンツは「娯楽」とも呼ばれるように、その本質は「暇つぶし」です。20世紀、娯楽は高価で、貴重なものでした。街頭テレビのプロレス中継に皆が釘付けになり、新聞と雑誌は飛ぶように売れ、レコードは子供達の憧れでした。しかし、インターネットの登場で、今までお金を払わなければ手に入らなかったコンテンツは、無料で、しかも良質な代替品が手に入るようになってしまいました。その結果、消費者は、その作り手の存在を忘れ、あたかもコンテンツを“空気”のように消費し始めました。つまり、消費者にとって、コンテンツはこちらから何もしないでも無限に湧いて出てくる“べき”モノになってしまったのです。


しかし、それは全くの間違いです。皆さんが日々利用するニコニコ動画やpixivはUGCの代表格ですが、そのどんな作品一つをとってみても、その裏には熱心なクリエイターと、費やされた膨大な時間と労力が存在するのです。しかし僕たちはそういった背景を考慮に入れようとしません。それがどんな作品であろうと、批判することはあってもその労力に報いようとはしません。


ニコニコ動画の「やってみた」ジャンルは、恐らく一番新しいUGCジャンルの一つですが、その普及から2年程度しか経っていないにも関わらず、活動を休止する人たちが続出し、極めて流動的なジャンルとなっています。その背景には、今まで述べたような極めて受動的で自分勝手な消費者の存在があります。自分の活動が評価され有名になっても、待っているのは、自分勝手なコメントと、あらぬ批判。その上、無料文化が根付いてしまったネットコンテンツにおいて、少しでも収益を上げようとすると、降りかかってくるのは“金の亡者”という汚名。


公開するだけ損―――。


これは皆さんが考えている程悠長な問題ではありません。事実、今現在UGCは一時期に比べて間違いなく下火になってきています。その実証が現在のニコ生とtwitterの爆発的な人気です。本来、優良なコンテンツを制作するのには高度な技術力と莫大な時間を要します。このプロセスはどんなジャンルでも絶対に必要でした。しかし、twitterをコンテンツだと言い張る人たちは、《その人のキャラクターがそのままコンテンツ、すなわち日常分野でのUGC》だと主張します。これは、《twitterもニコ生も、本当の意味で“何もない素人”が自分自身のコンテンツ化をはかっている》ということを意味します。もっと簡単にいいましょうか。


自分の望むコンテンツが簡単に手に入らなくなった消費者は、仕方なく何も無い自分でも出来るようなことのコンテンツ化を図っているのです。


このままでは、才能のあるクリエイター達は、自分勝手な消費者に消費され尽くされて、飽きたら話題にもされず、残された骨折り損の感覚と共にネットを去ってしまいます。

  • AIR CONTENTS」とは


つまり、「AIR CONTENTS」とは、今現在、“空気”のように消費されている優れたユーザー主導のコンテンツのことを指します。これがUGC/CGMと差別化される最大の点は、今現在の状態を否定的に捉えているという点です。UGCは一般的に、WEB2.0的なコンテンツの代表格ーーすなわちコンテンツ形態の理想型としてしばし言及されますが、その大概は僕たちのような《自分で何をするわけでもないけど、作っている人だって僕たちと変わらない素人なんだから、お金を払う必要なんかないし、俺たちの意見はネットの総意だ》と、自分の都合の良いように物事を解釈し、《何もしないでも良質のコンテンツが無料で手に入る状況》を維持し、無責任を決め込んでいる消費者からの意見です。


そういう無責任な大多数は、いずれUGC文化を衰退させるでしょう。しかし、僕たちはUGCが大好きです。作品が好きで好きで仕方ないからやってる人たちの作る作品は市販のコンテンツにも決して負けない価値があると思っています。彼らはお金など求めてはいないのです。ただ、自分の作品が正当に評価され、『おもしろいね!』と一言言ってもらいたいだけなのです。しかし、だからこそ、その努力に僕たち消費者が報いる手段を模索すべきなのではないでしょうか。


そういった優れた「AIR CONTENTS」と、その才能ある作り手をないがしろにするこの国の”空気”を変えるーー。


それが当ブログの基本理念です。今現在、pixivではリアルで個展が開催され、vocaloidではproject DIVAが来年の3月9日に初音ミクのライブを開催することを決定しています。詳細は分からないのであまり言及はしませんが、これは確かなムーブメントです。《ネット発、リアルへ》これが「AIR CONTENTS」に光を指す手段の一つだと考えています。


このブログでは皆さんが見つけた、優れたコンテンツを募集します。皆さんが『すごい!』と思った作品を、是非お知らせ下さい。当ブログは、インターネット上の優れた「AIR CONTENTS」を勝手に応援するメディアを目指します!


募集する作品は、以下の項目を守っていただければ、アニメ、映画、漫画、イラスト、ゲーム、写真、小説、音楽、演劇、ラジオ…等のジャンルは問いません。


・1次創作(MADや版権イラストではなく、作者のオリジナルの作品)であること。
・有料/無料は問いません。
公序良俗をわきまえた健全な作品であること。
・犯罪や反社会的な行為を助長する作品でないこと。
・出来ればwin/macで互換性のあるコンテンツであること。(これはあまり気にしないで下さい)


ご連絡はコメント欄までお願いいたします。出来れば簡単な解説を付けてくれると幸いです。


ではまた。皆さんよいお年を!KeroKeroKeroP☆

特にタイトルなし。

  • 対談:うるまでるび×シモダテツヤ--クリエイター・ミーツ・インターネット

http://japan.cnet.com/column/pers/media/story/0,2000058034,20405152,00.htm


http://japan.cnet.com/column/pers/media/story/0,2000058034,20405158,00.htm

少し前の記事ですが、CNETJAPANでのクリエーター2名の対談の記事です。


−クリエイターが作ったデジタルコンテンツをネットで販売する状況が当たり前になるのはまだ遠い先の話なのでしょうか?


シモダ:まず、決済システムがどれだけ簡単で身近になるかがネックなのかなと思います。


うるま:ネット決済っていまだに代引きじゃないと安心できないっていう人が多いよね。


シモダ:携帯でコンテンツにお金を払うのは、通話料に乗っかって請求がくるので支払いが楽チンですよね。若い人はネットでの支払いに対する抵抗が薄いほうだと思うので、そういう人がもっと増えれば右に倣えになっていくと思うんですけど。そこにケータイやカードみたいな簡単な決済システムが、さらに身近にあればもう一つポーンと前進すると思います。そういうの以外で「デジタルコンテンツという実体のないものに対してお金を支払うことの抵抗感」って、どうやったら払拭されるのかなあ…… 。


うるま:でも、ほら「グリーの釣り竿」が何十億って売れちゃうわけでしょ?(笑) その話を聞いて、遂にそこまで来たかって思った。一般の人は、重さのないモノに対してお金は払わないんだってずっと思ってたの。だけど、ここ数年で急激に変わったよね。


シモダ:何かを買ってお金を支払うのとは、少し感覚が違うのかもしれないですね。


うるま:そもそも僕らはお金儲けしたいわけではなくって、続けたいだけなんです。運営できてそこそこ食べていけるだけあればよくって、それ以上にファンとかユーザーの応援の気持ちを届けてもらえるといいなって思うんです。「このアニメが面白いからお金払います」じゃなくて、「このアニメ作ってくれてありがとう、だから払います」っていう感じ。タレントのファンクラブに近いんですかね。ミュージシャンってライブという手段があるから、お客さんと一体になったり、お客さんの反応をみながら演奏できるでしょ。映像系ってライブがないから分かんないんだよね。羨ましいです。「おしりかじり虫」がヒットしてるっていったって、街中で「かじり虫さんですか?」って声かけられるわけじゃないし(笑)。


注目したいのはここ。先日「するめいか」の記事で書いた、「電子決済のファシリテーション」についてが述べられています。どっちが先とか、そういう話ではなくて、クリエイターの人たちもこういった問題について問題を感じているというのが分かります。それ以外にも、興味深い内容が議論されているので是非覗いてみて下さいね!文字数もそんなに多くないと思います。


ではまた。KeroKeroKeroP☆

アバターと匿名性

インターネットコミュニケーション(INC)は匿名メディアといえるのしょうか?


多くの僕たちは、インターネットを能動的に使うにあたり、僕たちが”こちら側”の世界で名乗っている実名を隠す手段として、”あちら側”ーーインターネットの雲のなかに、「HN」という仮の名前を作ります。「匿名」本来の意味合いからすれば、実名を晒すことを避ける手段の1つとして、HNは確かにその働きをしていると言っていいでしょう。しかし、ブログやSNS(mixi、モバゲー)をやっている方々ならば、自らがINCを能動的に利用する際、HNの命名は”こちら側”の名前を伏せるという目的よりも(もちろん無いわけではありませんが)、”あちら側”での自らの分身、「アバター」を作成する1プロセスに過ぎないのではないでしょうか?


いかに実名が晒されないーーあたかも”こちら側”の世界とは一線を画した別世界のようなインターネットという空間においても、能動的に活動するにあたれば、その主体を表す記号は必要不可欠になります。僕自身も、ブログを始めたきっかけは、主として自分の考えを様々な人たちに聞いて欲しいという、見方を変えれば、ある種の自己愛、自己顕示的な動機ではありますが、その際に、ネット空間における自らの考えの語り手、「けろっぴ」の必要性は、自然で、特別気にかけることではありませんでした。ここで、大きな疑問となってくることは、「匿名性としての機能が弱まりつつあるにも関わらず、何故”アバター”という概念は日本に於いて無くならず、むしろ、規範的になっているのか?」ということであります。(”日本に於いて”、というのは、世界最大のSNSを有するアメリカでは、ブログやSNSの実名参加がある種必要条件化しているからです。)SNSサイトのプロフィールの欄には、住んでいる都道府県や、通っている学校を掲載している人も少なくありません。しかし、実名を掲載している人は、ほぼ皆無と言ってもさしつかえないでしょう。


では、何故「実名」や「顔写真」はタブーで、他の物事は大概肯定されうるのでしょうか?


ここからは完全に僕の個人的な推察ですが、僕たちは「アバター」作成を"the way of identification"(「自分自身はこういう人間なのだ」という確認作業(自己同一化)の手段)として利用しているのではないか、ということです。平たく言えば、「自分探し」でしょうか?話が少しずれますが、僕はあくまで個人的に、自己同一化はその名とは一見無関係な位置に在る、「他人」や「集団」を通さずして為すことは極めて難しいと思っています。例えば、カードゲームが好きならば、誰しも1度や2度大きな大会で優勝してみたいと思うでしょう?そこには、「自分の好きなことで他人に認めて貰いたい」という願望があり、その為には「他人」と勝負して勝たなくてはなりません。誰もいない世界で、カードゲームで強くなりたいと思ったり、そもそも自分が誰かなど考え得るのでしょうか?しかし、それは既にカードゲームが「対戦」という交流の要素を孕んでいるからだ、と言えるかもしれません。


それでも、うまくいった料理や、その日見た綺麗な景色、面白いと思った出来事は、自分1人で消化しても、どこかむなしく終わり、皆、それを「誰か」ーー家族や友達、恋人に話したいと思うし、それらがすなわち「コミュニケーション」であり、その延長が「誰か」ー”who”の枠を極限まで拡大した、本当の意味での「誰か」ー"whoever"への伝達手段、インターネットコミュニケーションだと思います。


誰かとその話題について話し、自らの問いかけに、


「この料理どうかな?」「(゚Д゚)ウマー」
「あそこの景色が凄く綺麗だったんだけど、行ったことある?」「あるあるwすげー壮観だよなw」
「昨日の番組面白かったよね?」「うん、めっちゃおもろかったw」


という返事が返ってきたとき、初めて、「自分はこういう能力がある」「自分の感性は間違ってなかった」「自分はこういうものが好き」と気づくことが出来るのではないでしょうか?自分の望んだ応え返ってこなかったとしても、同じ事です。すなわち、「自己同一化」とは、「自分と同じ生物である”人間”で満ちた集団に於いて、他人と交わり、他と自の差異を確認すること」、だと僕は考えています。そしてそれは、国籍、能力、容姿、性別といった先天的な自己同一性とは全く無関係な”あちら側”の世界に於いて、(「人間であること」が後天的であるならば)自分が思う自分自身ーー「アバター」に、性格、嗜好、興味、交友、恋愛、衝突といった、後天的な自己同一性を自己同一化”させている”とは考えられないでしょうか。


そう考えると、先ほどの、「実名」や「顔写真」がネットに於いてタブー視される事の理由も何となく分かってきます。それは、「実名」や「顔写真」が僕たちが生活を余儀なくされる”こちら側”の世界に於いて、これ以上なく機能的な"the way of recognition"(これを見れば、「ああ、あいつのことね」と分かるような物事)として働いてしまうからです。それは「他者」との交流を通してしか出来ない自己同一化に、大いに水を差します。先ほど述べた先天的自己同一性は、それだけでその人のイメージに大きな影響を落とします。


想像してみて下さい。
独創的な作品を書く漫画家の、平凡な本名を知ったとき。
これ以上なく魅力的な声色の声優が、リアルではお世辞にも美人と言えなかったとき。
女性のPNで甘美な恋愛小説を連載する小説家が、実はメタボなオッサンだと知ったとき。


僕たちは彼らの所業よりも、そういった事実に、大いに失望し、どことなく小馬鹿にした気持ちになるものです。


親が優秀ならその子は勿論?
イケメンの彼女は勿論?
発展途上国の人間は先進国の人間よりも勿論?


私たちは、彼らの自己同一化を補助すべきで在るのにも関わらず、”こちら側”世界では、彼らの先天的自己同一性を、勝手にそのまま彼らのイメージとして定着させてしまうのです。そういった事を解消する唯一の手段が「コミュニケーション」です。「付き合ってみたら意外と良い奴だった」という、良く聞く文句がそれを如実に表していると言えるでしょう。裏を返せば「まず付き合ってみないと、彼らの人間性、考えていることはわかり得ないし、自分も分かって貰えない」ということでもあり、僕たちは”こちら側”の世界に於いて、様々な人たちとの交流ー自己同一化の機会を大幅に狭めているとも言えるかも知れません。僕たちは無意識にそれに気づき、自己同一化を渇望し、自分という人間がどういう人間なのかを確かめるためにーーもしそうでなければ、誰に頼まれることなく、反応すら有るかどうかわからない広大な空間に、一銭の得にもならない「自分が思う自分自身」のことを自発的に書こうとは思わないでしょう。これはやや立ち入った推測ではありますが、仲間内でのSNSやブログの活用も、そういった願望の表れなのではないでしょうか。今までは、こういった"the way of recognition"を介在させない"the way of identification"は主に出版業界の仕事でしたが、これからは、誰でも、自分が思う自分自身(the identical myself)を自己同一化出来る可能性があると、ふと考えてみると、サブカルチャーとして捉えられがちな日本のインターネットコミュニケーションの意外な使い方に対して、ほんの少し見方が変わるかも知れません。


「自己同一化」などと、大仰な表現を使いはしたものの、つまりは、他人と繋がり、その交流のなかで1人の人間としての自分自身の存在を確認することに喜びを感じる、人間という生き物の寂しがり屋な”一面”を、僕が個人的にネットの海のなかに垣間見たような気がしただけです。くれぐれも高尚な事が書いてあると勘違いしないように!


それでは長々とした、個人的で、未熟で些末な意見にお付き合いいただき、ありがとうございました。


ではまた。KeroKeroKeroP☆

「するめいか」に見るUGCの現状と展望。

さて、この議論を始める前に、皆さんに「UGC…User Generated Contents」というコンセプトを知っておいて貰いたいと思います。

UGC (user-generated content)

ユーザー作成コンテンツ / ユーザー生成コンテンツ

 プロの作り手ではなく、一般の人々によって作成されたさまざまなコンテンツの総称。特にブログ・SNS・Wikioedia?などに書き込まれた文章、ファイル共有サイトにアップロードされた画像・写真・音声・動画・アニメーションなどのオンライン・コンテンツをいう。

 従来から電子掲示板やディスカッショングループなどで一般の人々が情報発信・交換することができたが、最近ではインターネットのブロードバンド化および各種デジタル技術の低価格化などから、少ない資金でも音声や映像を駆使したリッチ・コンテンツを制作・配信できるようになり、多くのコンテンツが公表されるようになった。

 こうした中で写真共有サイト「flickr」、ソーシャルブックマーク・サイト「del.icio.us」、動画共有サイトYouTube」、SNSサイト「MySpace」、百科事典サイト「Wikipedia」などが隆盛を極めており、それらをくくる言葉として UGCに注目が集まった。

 UGCの中には玄人はだしのものもあるが、実際には玉石混交で「一般メディアのコンテンツに比べ、品質が保証されない」「著作権法に違反するものがある」などの批判がある。

 CGM同様にビジネス/マーケティングの観点からも注目されるが、それとは別にシチズンジャーナリスト/パブリックジャーナリストによる草の根ジャーナリズム、インターネットを使った市民・選挙活動(ネットルーツ)、オンライン民主主義の文脈で語られることもある。

ーーー@情報マネジメント用語辞典より抜粋。







するめいか」という個人制作のアニメーション作品が大きな話題を呼んでいます。この作品は、1週間に1回のアップロードを1クール続けていくという、テレビアニメとまったく同じ手法を用いています。しかし、再度強調しますがこれは「個人制作」の作品です。スポンサーから提供を受けることもなければ、出演者にギャランティーが支払われることもないーーいわいる、「UGC(ユーザー生成コンテンツ)」です。


そのようなバックグラウンドが存在するにも関わらず、何故この作品は登場し、人気を博しているのか?その理由を探ると同時に、この作品を通じて、昨今のUGCムーブメントについての考察を織り交ぜながら、問題提起をしていく所存であります。その予備知識として、制作者のルーツ氏と、ニコニコ動画における彼の活動の紹介から始めたいと思います。


ニコニコ動画における「ゲーム実況」


このジャンルの登場以前は、インターネット上のゲーム動画といえば、いわゆる”神プレイ”をそのままYOUTUBEなどにアップするといった、比較的簡素な内容となっていました。しかし、そういった動きも、インターネットの登場以前は「ゲームセンターCX」など、一部のマニアックなテレビ番組や、雑誌の投稿欄などに限られていました。


ーーもっとユーザー目線でゲームプレイを共有したい。


そのような需要がユーザーの間で生まれ始めていたかどうかは分かりませんが、「ゲームセンターCX」自体が、「フジテレビCS放送フジテレビTWO」というマイナー局での放送だったにも関わらず、相当な人気を誇っていた様子はwikipediaの当該項目の異様な充実度から伺えます。実況動画といったジャンルが誕生した正確な時期は分かりませんが、少なくともYOUTUBEが日本で普及し始めた06年頃には既にその原型らしきものはYOUTUBEにおいて確認されていたようです。このジャンル自体、ゲームメーカーから発売されたゲームソフトを前提とするという点で、初音ミクといったvocaloidのような完全なUGCとは言えないでしょう。ここでは過度な言及は避けますが、このジャンルのバックグラウンドには”エミュレータ”という極めてグレーな側面があり、加えてニコニコ大百科の当該項目ににあるとおり、


『なお、実況の有無に関わらずゲームプレイ動画は著作権の問題においてグレーゾーンに存在する。権利者が比較的寛容なため現在は数多くのゲームプレイ動画が存在するが、一方で社団法人コンピュータソフトウェア著作権協会が『無断でゲーム画面をインタ−ネット上にアップロードすることは著作権の侵害にあたる (http://www.ihokamo.net/school.html)』、と明言しており、新作ゲームを中心としたゲームプレイ動画が少なからず権利者削除されていることも知っておきたい。投稿者や視聴者はこのことを理解した上で実況プレイ動画を楽しむべきである。』

との明記があり、かつての”アニメ狩り”のようにならないために実況動画というコンテンツにはまだ解決すべき問題が少なくありません。しかし、今現在数多くのゲーム実況動画がネット上にアップロードされ、人気を博している理由としては企業側の「宣伝効果が高い」といった、権利者と消費者のwin-win(どちらにもメリットがある状態)な関係が挙げられるでしょう。


そんな中、「中二の頃作った黒歴史RPGを実況プレイするぜ」という、自分がかつて制作したゲームを自分で紹介しながら実況するという、一風変わったアプローチでデビューし、一躍人気を博した実況プレイヤーがいます。実況の途中で、自らを”ルーツです”と名乗ったその青年は、アップロード後、持ち前の歯に衣着せぬ物言いと、誰もが赤面するような自分の”黒歴史”をネタに実況するという実況スタイルですぐに話題になり、その存在感を確固たるものとしました。


◆「するめいか」の誕生。


原作は、同氏が「コミックバーズ」「WEBマガジン冬幻社」で連載中の4コマ漫画。同誌の出版社、冬幻社は「WEBマガジン冬幻社」において、実況動画で人気の実況プレイヤーの連載を提供するなど、ラディカルな活動をしています。詳しくは下記のITMEDIAの記事を参照されたし。


【WEBマガジン冬幻社】

http://webmagazine.gentosha.co.jp/


【ゆるアニメ『するめいか』の作家ルーツ氏にインタビュー! 「早朝の総武線で……」】

http://news.livedoor.com/article/detail/4263206/


【日々是遊戯:「ニコニコ動画」の有名実況プレイヤー4名が、Webマガジン幻冬舎で連載開始】

http://gamez.itmedia.co.jp/games/articles/0904/14/news070.html


そんな中、ルーツ氏は

『最近web漫画を描いてるんだけど、ディズ二ーからアニメ化の話が来なかったので、自分でアニメ化することにしたよ。普通のアニメみたいに毎週土曜に一話ずつ更新していきます。』


と、「Live2D」というアニメーション制作ソフトを利用し、「自分の作品を自分でアニメ化」という斬新な試みを敢行。


【Live2D − 3Dとは異なるアプローチによる本格的な立体表現】

http://www.live2d.jp/


舞台は同氏のホームグラウンドの江東区亀戸。背景はデジタルカメラの動画機能で撮影したといいます。アニメーションキャラクターの「サっちん」と「ミっちょん」が不自然な程リアルな背景をバックに、クスッとしてしまうテンポの良いやりとりを繰り広げる、どこかアンバランスだけど、何故かこれ以上なくマッチしている、このまったく新しい作品は、多くのファンを獲得しました。


◆UGCとしての画期性。


僕がこの記事を書くきっかけとなったのは、この作品のある画期的な試みです。それは、「アニメというジャンルを完全にUGC化した」という点です。今まで、UGCはいわゆる「N次創作」と呼ばれるーー「コンテンツ産業論」の言葉を借りればーー「上流」と呼ばれる作品をユーザーが本来と違った形で消費し、共有し、それを伝播させていく「MAD」「同人誌」「東方project」「歌ってみた」「描いてみた」などのジャンルが主流でした。しかし、昨今の「vocaloid」のように、ユーザーが「N次創作」の「上流」たり得る作品ーーつまりはオリジナルということなのですがーーを発表しているのは、UGCというジャンルの展望として大きなムーブメントであると言えそうです。


つまり、何が言いたいかというと、UGCはマネタイズ(利益を上げられること)可能なのでは無いか、という事です。もちろん、ここでのマネタイズの主体は、作品のクリエイターのことを指します。今まで、UGCと呼ばれるコンテンツ群は、クラウドコンテンツとして、若者の圧倒的支持を集めてきました。その何よりの理由が「無料」で「ジャンルが豊富」で「質が高い作品がある」ということであると思います。


イラストSNSサイトpixivを例に挙げますが、pixivのランキングの上位を覗けば、本屋で売っていたら迷い無く買ってしまうような質の高い作品が、数多く存在します。しかし、クリエイター達はそれを無料で、しかも競うように投稿しています。彼らの中にはそれを生業としている才能ある人たちもいるのですが、何故彼らは無料で公開を続けるのか。その理由について、僕たちクラウドコンテンツに日常的に触れている世代には、以外と素直に分かるのではないでしょうか。これについて、「ウェブ人間論」の中での、ブログについての梅田望夫氏と平野啓一郎氏の議論は参考になりそうです。

梅田:むしろブログの本当の意味は、何かを語る、何かを伝える、ということ以上に、もう一つあるのではないかと感じています。ブログを書くことで、知の創出がなされたこと以上に、自分が人間として成長できたという実感があるんです。僕の本業は経営コンサルタントで、しかも自分のブログを始めた時期は、シリコンバレーでの経験も約十年間積んで、日本のエスタブリッシュメント社会からの認知も高まり、成功したという実感を持てていた時期でした。ブログを書き始めたとき、最初は自分の中のどこかに、「シリコンバレーでずっとITの未来について考えてきたプロ中のプロである僕が、無料で、毎日書くんだから、読者はありがたいと思って読むに違いない」という意識があったんです。(中略)

平野:その感覚があるから、既存のメディアで書いている作家の多くは、ネットで無料で書くことを躊躇しているんでしょう。企業で働いている人が、仕事とは関係のない自分の考えや思いなんかをネットで表現する、というのとは違って、作家は表現それ自体が仕事なわけですから、その上更にネットで表現するということがどういうことなのか、イメージとしてピンと来ないというのもあると思います。

梅田:ところが、ブログをやり始めて数ヶ月たった時に、オープンソースのことを書いたんですね。(中略)そういう人の一人から「この部分は浅い」という内容の批判的なトラックバックをされたんです。最初は驚いたし、反発する気持ちも持った。でもその後、何回かやりとりをしているうちに、会ったこともない彼との信頼関係がネットで醸成されるのを実感できた。(中略)ネットの向こう側にとんでもない広がりがあるということに心の底から気づいたんです。それからは、モノを書き始めた頃のような謙虚さを取り戻して、勉強する量も増えたし、何事においてもじっくりとより深く考えるようになった。またそういうことが読み手にも伝わって、「ああ、こいつは成長しているな」と思って貰えるというプロセスも、全部見える形で公開されていたんですよ。

ーーー出典『ウェブ人間論』(梅田望夫平野啓一郎著、新潮新書

つまり、プロフェッショナルでない人たちが、主観的な作品をネットという客観性の極限にさらす事によって、自らのポテンシャルを向上させていこう、という考え方です。僕がこのブログを遊戯王関係のブログとしてスタートした時も、全く同じ動機でしたし、このおかげで僕のリンクに限らず、色々な人の刺激的な意見を聞けました。

話を戻しましょう。

pixivからクラウドUCGの現状を考察しましたが、こんどはそのマネタイズ化の可能性についてです。UGCのクリエイター達は皆それを「楽しいから」やっている訳です。「何かを作って、他人から評価されることが凄く楽しい。でも、実際はそれでご飯が食べられるわけではない…。」今現在のクラウドUGCムーブメントは、そういうアンプロフェッショナルたちのジレンマから生まれているのです。彼らは決してプロフェッショナルではない。プロフェッショナルの人たちに比べれば、技術や才能や人脈も無いかも知れない。しかし、ここまでの規模となると、彼らは独自のコミュニティとネットワークを生成し、その中には上記の研磨プロセスを経て、自然発生的にプロフェッショナル級の実力があるクリエイターが現れてくるのです。


「N次創作」の「上流」たる作品がUGCから生まれてくる。


そういう人たちが、もっと自由に活動できるようにできないだろうか?


というのが、本稿の問題提起です。

事実、ネット上のUGC文化から、それを職業にしていく人たちも出てきています。しかし、彼らはメジャーレーベルのレコード会社や出版社などに”青田刈り”されているに過ぎない。せっかく”UserGeneratedContents”という素晴らしい理念を抱いてクラウドで活動するクリエイター達が、どうしてわざわざ前世代的なメディアに出向しなくてはならないのだろうか?ここではあまり具体的な提案は出来ないのが残念ですが、これに共感してくれる方がいたらな、と思います。


「振り込ませろ詐欺」というタグが存在します。

『振り込ませろ詐欺とは、お金を払いたくなるほど素晴らしい動画などを公開した作者に対する敬意と感謝の気持ちを示すタグである。「振り込めない詐欺」よりお金を払いたい意志が強い、「振り込めない詐欺」の発展系である。』

もちろん、これは単なる衝動的な感動に過ぎないのかも知れません。しかし、自分のお気に入りの作品に、お金を払ってもいいという人は存外多いのではないでしょうか。wikipediaの運営が募金で成り立っているように、UGCのコンシューマーからクリエイターへの支援が、手軽に行えるようになれば、クラウドUGCの分野も、「単なるオタクの産物」から、自分の作品が正当に評価されうるビジネスの場になり得るのです。


特に「するめいか」で注目したいのは、舞台である”亀戸”という実在の地域が、確実に有名になっている、という事です。本来なら、地域の行政の観光課がやるべきPR政策が、こういうジャンルの作品で確実に成されています。本当ならば、地域行政がこういったムーブメントに投資すべき(というか、した方が費用対効果が目に見えています)なのですが、果たしてどうなるのでしょうか。企業や行政といったエスタブリッシュメント層からの支援に加えて、もう一つ必要不可欠であると感じるのは、コンシューマーからの活動支援です。これは、ネットコンテンツの今現在の課題である、電子決済のファシリテーションという問題への解決策も提示してくれるかも知れません。


ネットコンテンツがしばし最もマネタイズが難しい市場だ、といわれる原因を、僕は「電子決済へのユーザーの抵抗感」だと考えています。現実で100円の買い物をするのと、ネットで100円の買い物をするのには金銭感覚に圧倒的なズレがあるのではないでしょうか。前者は、ぽいとお賽銭に投げ入れることができるくらい。後者は、フリーソフトウェアの有料版が100円であったとき、「なんか面倒くさいな…無料版でいいや」と躊躇してしまうくらい。ネットでの電子決済は主にクレジットカードや電子マネーiTunes cardなど、なにかと不便を被る機会が少なくありません。それがネットコンテンツのマネタイズの障壁になっているのではないか、と思います。


◆終わりに。


さて、思ったより長い文章になってしまいましたが、僕がこの文章で伝えたかったのは、UGCは大きなソーシャルムーブメント、並びにビジネス市場となりえるのではないか、ということです。インターネットは個をエンパワーメントし、その可能性を広げてくれる。これから、もっともっとインターネットをつかって、”リアル”に影響を与えるクリエイティブなムーブメントが出てくることが楽しみで仕方ありません。


ではまた。KeroKeroKeroP☆