アバターと匿名性

インターネットコミュニケーション(INC)は匿名メディアといえるのしょうか?


多くの僕たちは、インターネットを能動的に使うにあたり、僕たちが”こちら側”の世界で名乗っている実名を隠す手段として、”あちら側”ーーインターネットの雲のなかに、「HN」という仮の名前を作ります。「匿名」本来の意味合いからすれば、実名を晒すことを避ける手段の1つとして、HNは確かにその働きをしていると言っていいでしょう。しかし、ブログやSNS(mixi、モバゲー)をやっている方々ならば、自らがINCを能動的に利用する際、HNの命名は”こちら側”の名前を伏せるという目的よりも(もちろん無いわけではありませんが)、”あちら側”での自らの分身、「アバター」を作成する1プロセスに過ぎないのではないでしょうか?


いかに実名が晒されないーーあたかも”こちら側”の世界とは一線を画した別世界のようなインターネットという空間においても、能動的に活動するにあたれば、その主体を表す記号は必要不可欠になります。僕自身も、ブログを始めたきっかけは、主として自分の考えを様々な人たちに聞いて欲しいという、見方を変えれば、ある種の自己愛、自己顕示的な動機ではありますが、その際に、ネット空間における自らの考えの語り手、「けろっぴ」の必要性は、自然で、特別気にかけることではありませんでした。ここで、大きな疑問となってくることは、「匿名性としての機能が弱まりつつあるにも関わらず、何故”アバター”という概念は日本に於いて無くならず、むしろ、規範的になっているのか?」ということであります。(”日本に於いて”、というのは、世界最大のSNSを有するアメリカでは、ブログやSNSの実名参加がある種必要条件化しているからです。)SNSサイトのプロフィールの欄には、住んでいる都道府県や、通っている学校を掲載している人も少なくありません。しかし、実名を掲載している人は、ほぼ皆無と言ってもさしつかえないでしょう。


では、何故「実名」や「顔写真」はタブーで、他の物事は大概肯定されうるのでしょうか?


ここからは完全に僕の個人的な推察ですが、僕たちは「アバター」作成を"the way of identification"(「自分自身はこういう人間なのだ」という確認作業(自己同一化)の手段)として利用しているのではないか、ということです。平たく言えば、「自分探し」でしょうか?話が少しずれますが、僕はあくまで個人的に、自己同一化はその名とは一見無関係な位置に在る、「他人」や「集団」を通さずして為すことは極めて難しいと思っています。例えば、カードゲームが好きならば、誰しも1度や2度大きな大会で優勝してみたいと思うでしょう?そこには、「自分の好きなことで他人に認めて貰いたい」という願望があり、その為には「他人」と勝負して勝たなくてはなりません。誰もいない世界で、カードゲームで強くなりたいと思ったり、そもそも自分が誰かなど考え得るのでしょうか?しかし、それは既にカードゲームが「対戦」という交流の要素を孕んでいるからだ、と言えるかもしれません。


それでも、うまくいった料理や、その日見た綺麗な景色、面白いと思った出来事は、自分1人で消化しても、どこかむなしく終わり、皆、それを「誰か」ーー家族や友達、恋人に話したいと思うし、それらがすなわち「コミュニケーション」であり、その延長が「誰か」ー”who”の枠を極限まで拡大した、本当の意味での「誰か」ー"whoever"への伝達手段、インターネットコミュニケーションだと思います。


誰かとその話題について話し、自らの問いかけに、


「この料理どうかな?」「(゚Д゚)ウマー」
「あそこの景色が凄く綺麗だったんだけど、行ったことある?」「あるあるwすげー壮観だよなw」
「昨日の番組面白かったよね?」「うん、めっちゃおもろかったw」


という返事が返ってきたとき、初めて、「自分はこういう能力がある」「自分の感性は間違ってなかった」「自分はこういうものが好き」と気づくことが出来るのではないでしょうか?自分の望んだ応え返ってこなかったとしても、同じ事です。すなわち、「自己同一化」とは、「自分と同じ生物である”人間”で満ちた集団に於いて、他人と交わり、他と自の差異を確認すること」、だと僕は考えています。そしてそれは、国籍、能力、容姿、性別といった先天的な自己同一性とは全く無関係な”あちら側”の世界に於いて、(「人間であること」が後天的であるならば)自分が思う自分自身ーー「アバター」に、性格、嗜好、興味、交友、恋愛、衝突といった、後天的な自己同一性を自己同一化”させている”とは考えられないでしょうか。


そう考えると、先ほどの、「実名」や「顔写真」がネットに於いてタブー視される事の理由も何となく分かってきます。それは、「実名」や「顔写真」が僕たちが生活を余儀なくされる”こちら側”の世界に於いて、これ以上なく機能的な"the way of recognition"(これを見れば、「ああ、あいつのことね」と分かるような物事)として働いてしまうからです。それは「他者」との交流を通してしか出来ない自己同一化に、大いに水を差します。先ほど述べた先天的自己同一性は、それだけでその人のイメージに大きな影響を落とします。


想像してみて下さい。
独創的な作品を書く漫画家の、平凡な本名を知ったとき。
これ以上なく魅力的な声色の声優が、リアルではお世辞にも美人と言えなかったとき。
女性のPNで甘美な恋愛小説を連載する小説家が、実はメタボなオッサンだと知ったとき。


僕たちは彼らの所業よりも、そういった事実に、大いに失望し、どことなく小馬鹿にした気持ちになるものです。


親が優秀ならその子は勿論?
イケメンの彼女は勿論?
発展途上国の人間は先進国の人間よりも勿論?


私たちは、彼らの自己同一化を補助すべきで在るのにも関わらず、”こちら側”世界では、彼らの先天的自己同一性を、勝手にそのまま彼らのイメージとして定着させてしまうのです。そういった事を解消する唯一の手段が「コミュニケーション」です。「付き合ってみたら意外と良い奴だった」という、良く聞く文句がそれを如実に表していると言えるでしょう。裏を返せば「まず付き合ってみないと、彼らの人間性、考えていることはわかり得ないし、自分も分かって貰えない」ということでもあり、僕たちは”こちら側”の世界に於いて、様々な人たちとの交流ー自己同一化の機会を大幅に狭めているとも言えるかも知れません。僕たちは無意識にそれに気づき、自己同一化を渇望し、自分という人間がどういう人間なのかを確かめるためにーーもしそうでなければ、誰に頼まれることなく、反応すら有るかどうかわからない広大な空間に、一銭の得にもならない「自分が思う自分自身」のことを自発的に書こうとは思わないでしょう。これはやや立ち入った推測ではありますが、仲間内でのSNSやブログの活用も、そういった願望の表れなのではないでしょうか。今までは、こういった"the way of recognition"を介在させない"the way of identification"は主に出版業界の仕事でしたが、これからは、誰でも、自分が思う自分自身(the identical myself)を自己同一化出来る可能性があると、ふと考えてみると、サブカルチャーとして捉えられがちな日本のインターネットコミュニケーションの意外な使い方に対して、ほんの少し見方が変わるかも知れません。


「自己同一化」などと、大仰な表現を使いはしたものの、つまりは、他人と繋がり、その交流のなかで1人の人間としての自分自身の存在を確認することに喜びを感じる、人間という生き物の寂しがり屋な”一面”を、僕が個人的にネットの海のなかに垣間見たような気がしただけです。くれぐれも高尚な事が書いてあると勘違いしないように!


それでは長々とした、個人的で、未熟で些末な意見にお付き合いいただき、ありがとうございました。


ではまた。KeroKeroKeroP☆