AIR CONTENTSとは何処にあるのか〜UGCの商業化とそれに関する考察〜

前回の更新から約1ヶ月半。前の二つの記事を読み返しながら、自分の記事ながらずっと違和感を覚えていました。


AIR CONTENTSとは本当にこういうものなのか?』
UGC文化のバックグラウンドを読み切れているか?』


今回のテーマは「無料」と「意識」。
UGCのキーワードではあるが、大した議論が為されていなかった、この二つの関係性にUGCの現状を読み解くヒントが隠されていました。


では始めていきましょう!

  • なぜネットコンテンツは無料なのか


現在、ネット上では《全てのインターネットコンテンツは基本的に無料である》という前提が出来上がってしまっていて、「必ずしも無料である必要がないコンテンツ」の存在が見えにくくなっているのではないかと感じます。


僕は「ゼロ年代最後の日に」でAIR CONTENTSが “空気”のように消費される一因が、《消費者にとってコンテンツが自然に湧いて出てくるものとなりつつある》という消費形態の変化であるとも述べました。さらに、その消費形態の変化の原因が、《UGCをはじめとするネットコンテンツが軒並み無料である》というところに帰着させました。


このように《疑問→答え》のプロセスをメタ的に展開していくと、次のような根源的な疑問に行き着きました。


『なぜ、無料であるのか?』

  • UGCとはなにか


実際のところAIR CONTENTSとはどういったものを指すのかという根本的な定義は未だに曖昧なままです。それは、僕自身が今のネットコンテンツの置かれている状況を『コンテンツに携わる人たち皆に対して優しい仕組みになってない』という漠然とした感覚のもとに見つめてきてしまったからだと思います。事実、無料で公開され、消費されているコンテンツの中にもそれなりにうまくいっているコンテンツも存在します。ですから、AIR CONTENTSという概念の言い出しっぺである僕自身も具体的にどれが当てはまり、どれが当てはまらないのかという境界線を引きかねていたというのが本当のところです。


このブログを立ち上げてから、UGCに詳しそうな何人かの人にAIR CONTENTSという考え方——《“空気”のように消費されているユーザー主導のコンテンツ》を紹介したのですが、不思議なことに皆が皆全く違った見解を示してくれました。


ある人は、UGCの作り手のインセンティブはそもそも「作品が公開できること」にあると述べ、『それを通じたファンの人とのコミュニケーションに価値を見いだすことがコンテンツ制作である』と語ってくれました。そして彼らが最も嫌がるのは「作品外でのいざこざ」だそうです。つまり、作品に対するあらぬ批判や中傷、“信者”と呼ばれる一部熱狂的ファンの分別のない行動、またそれによって引き起こされるファン同士の対立や、制作者同士の関係の悪化などです。そういったいざこざに悩まされる彼らの心情は想像に難くありません。


『私はただ単にみんなに見せて楽しんでもらおうと思っただけなのに、どうして公開する前よりも面倒なことになるの?』


またある人は、『そもそもUGCは、その作り手がそのコンテンツが好きで好きでしょうがないから無料で公開されているのではなくて、ただ単に仲間内で好き勝手に作って好き勝手に消費されているだけ。だからマネタイズなんか出来るわけない』とも語ってくれました。


そしてまたある人は、『UGCが無料で消費されているのは確かに《ネットコンテンツにお金を払うという仕組みがない》からだが、だからといってそういった仕組みが出来たとして、皆がこぞってお金を投じるだろうか』と疑問を呈しました。『そういった理由も確かに一因ではあるが、本当に優れたコンテンツと、その価値の最大化を図る仕組みが欠落しているからこそUGCは今のような規模と質に留まっていて、“同人”の域を出ない』とも語ってくれました。


こういった話を聞いていくうち、僕は『なぜ同じ“無料の”コンテンツの話題なのに、人によってここまで捉え方が異なるのか』と疑問に思いました。そして、今までUCGという括りで語っていたネット上のフリーコンテンツは、「AIR CONTENTSとビジネスモデルの関係性について」で検証した以上に分岐しているのではないかと思い始めました。

  • フリーコンテンツの5分類


IT技術の発展により、コンテンツ開発のコストは限りなくゼロに近づき、インターネットの普及によりその流通コストもゼロになりました。そして、ネット黎明期の反体制・コミュニティ志向・利他的な空気のもとに、多くのコンテンツが無料で公開されてきました。確かにそれらの素晴らしいコンテンツが無料で公開されていることは非常に好ましい事態と言えます。そして、そういう性質をもった無料のコンテンツが(特に欧米圏を中心に)多く存在するということもまた事実です。しかし、今現在日本のUGCに於いて、全てのコンテンツがそういったイデオロギーの元に“無料”で公開されていると言い切れるでしょうか?


僕にはそうは思えません。僕たちは今まで本質的に性質が異なるコンテンツを“UGC”だとか“無料”というラベルを張って、大事な部分から目をそらしてきたのではないでしょうか。そして、その性質の差を無視してきたからこそ、UGCという括りの中でAIR CONTENTSと他のコンテンツを分かつ境界線が見えにくくなっていたのではないでしょうか。


そして、その違いを解き明かす鍵となるキークエスチョンが、


『なぜ、無料であるのか』


です。換言すれば、『コンテンツの制作者がどういった意図のもとにそのコンテンツを無料で公開しているか』ということであり、これは今現在のフリーコンテンツの議論に於いてあまり重要視されてこなかった(と個人的に感じている)テーマです。


ーー『だって、そもそもネット上にあるコンテンツが無料なのはアタリマエでしょ?』


そして、現在無料で公開されているコンテンツを、「無料である理由」をもとに5つに分類してみることにしました。これがどういう意味を持つのかということはもう少し後で説明します。


以下が、暫定的なネットの無料で利用されているコンテンツの5分類です。


1、「Google型」
2、「オープンソース型」
3、「ネタ型」
4、「アマチュア型」
5、「AIR CONTENTS型」


それでは、それぞれの簡単な解説をしていきたいと思います。


商品としての“無料”——「Google型」


Googleを始め、mixiGreeなどの企業が自社のサービスを無料で提供しているケース。自社のコンテンツを無料で提供することによって、本来デメリットでしかないはずの「無料」という性質をビジネス戦略として最大限に利用している。(後述)。


Changes for the better——「オープンソース型」


wikipedialinuxなど、ネット黎明期の反体制・コミュニティ志向・利他的な空気の元に大勢のユーザーが参加して、一つの大きなコンテンツが制作されるケース。


自分の作品が公開できるしあわせ——「アマチュア型」


個人が趣味で制作したコンテンツを無料で公開しているケース。このケースの場合、制作インセンティブは《自分の作品を多くの人に見て貰い、褒めて貰いたい》といったものであり、コンテンツ制作を通じてお金を稼ごうという意識がそもそも存在しない。


“お前ら”との作品の共有——「ネタ型」


主にコミュニティ内(仲間内)での“ウケ”を狙って制作され、「同じ志向性を持った仲間とコンテンツを共有すること」と「コミュニティ内での自分の立場の確立」に意味を見いだし、無料で公開されているケース。


No promise is in sight——「AIR CONTENTS型」


これについては定義そのものも後述します。


では順に解説していきます。


まず「Google型」。これは、いわゆる「広告モデル」です。自社サービスを無料で提供することでユーザーを集め、その“無料”を商品に広告代理を行うという、ネットコンテンツのビジネスモデルの二本柱のうちの一つです。ちなみにもう一つは「課金モデル」で、基本使用料は無料のかわり、アバターのようなオプションに別途料金がかかるというタイプです。ネット、もしくはモバイルコンテンツ事業者は、主にこの二つで収益を上げていて、この二つの両立が優位なビジネス展開の鍵と言われています。SNS大手三社(mixiGreeDeNA)の中で、DeNAが比較的に高収益であるのも、DeNAが広告収入と同規模の収入を課金モデルから得ているからです。(ネットコミュニティ白書2010より)


次に「オープンソース型」。Wikipediaなどに代表されるような、《明確な制作者が存在しない、大きな一つのコンテンツ》の事を指します。ユーザーが制作者で制作者がユーザーという構造のもと、それぞれが利他的にはたらく協同的なコンテンツです。編集者の数でコンテンツの質と規模をカバーするため、利用に関してお金をとるというモデルは逆に自らの首を絞めかねないため、基本的に採用されないようです。


さて、次に「アマチュア型」と「ネタ型」について。これら二つはかなり近い位置にあると言えますが、その正確な差異はこの議論であまり重要でないので軽く解説します。


まず「アマチュア型」のケースの場合、制作者は自分の作品に対して大きくコミットしているといえます。つまり制作することそのものに意味を見いだしているということです。対して「ネタ型」の場合、制作者にとって作品は同じ志向性を持ったコミュニティ内でのコミュニケーション媒体として機能しています。彼らはもちろん制作を楽しんでいない訳ではないのですが、それよりもむしろ『これを公開したらどんな感想を貰えるだろう?』というコンテンツを通じてのコミュニケーションにインセンティブがあるのではないかと僕は解釈しています。これはまったくの私見ではありますが、ニコニコ動画などにおけるいわゆる“元ネタ”へのレスポンスなどは、純粋なコンテンツ制作を営んでいるというより、1次的な媒体を皆で改変し、共有し、それらのコンテンツによって媒介されるコミュニケーションを楽しんでいるように思えます。つまり、このケースはMADや版権イラストなどに代表されるUGCのN次創作的特徴がとくに顕著に表れています。


上記の『UGCはそもそも仲間内で好き勝手やっているだけのことであってマネタイズなんてできるはずない』という意見について、おそらく彼にとってのUGCは「ネタ型」だったのでしょう。このタイプは基本的にマスに向けてではなくて始めからニッチに向けて制作されているので、一般的なコンテンツが好きな人にとっては敬遠されがちのようです。そして、上記で『UGCの制作者のインセンティブは作品の公開にある』と意見をくれた人は、おそらくこの「アマチュア型」の人なのだと思います。その意識が表れているのが『UGCの制作者が一番嫌うのは作品外の“いざこざ”』という言葉です。

  • 今そこにある境界線


本来コンテンツ制作において、作品外での“いざこざ”は不可避です。クリエイターは自らの感性と主張を作品にのせてマスに発信するわけですから、当然なんらかのレスポンスを求めてはいるわけです。どんな優れた作品であろうとレスポンスの中には批判と賞賛が入り乱れているように、“いざこざ”も含めて“コンテンツ制作”という作業なのですから、それらが完全に無くなることは決してありません。


そして、これに関してもう一つ。UGC文化の発展によって“プロ”と“アマチュア”の境界が曖昧になっているということはよく言われることですが、果たして本当にそうでしょうか?


僕は、UGC文化の発展は“プロ”と“アマチュア”の差の所在に変化をもたらしたのであって、その境界線を完全に消してしまったわけではないと考えています。今まで両者を分けていたのは、ときに“才能”などと呼ばれる技術的なレベルの差でした。しかし、ことコンテンツに関してはデジタル技術の革新によって個人でも高クオリティの作品が制作できるようになり、そういったテクノロジカル・ディバイドで「プロ」と「アマチュア」を分けきることは困難になりました。結果として、テクノロジカル・ディバイドによって覆い隠されていた本質的な両者の違いがあらわになった。


それが「制作者のプロ意識の有無」です。


「アマチュア型」の人たちが作品外の“いざこざ”を避けようとする理由ーーそれはひとえに彼らの中での「プロ意識」の欠如に起因します。プロのクリエイターは自分の作品に金銭的対価を求める以上中途半端な仕事はできませんし、消費者にお金を払って貰っている以上彼らの批判や意見、自分の作品が人々に与えた影響などの「作品外の出来事」も真摯に受け止めなくてはいけません。


しかし、UGCにおいて個々の制作者の技術力のばらつきを度外視しても、彼らの殆どが先ほど述べた《自分の作品を多くの人に見て貰い、褒めて貰いたい》といった理念のもと、アマチュアとして活動しているわけですから、彼らにとって“いざこざ”はまったく想定外のことなのです。自分の作品に自分の望んでいなかったレスポンスがあった時彼らはこう感じるでしょう。


『好きでやっていて、お金を要求しているわけでもないのに、何で批判されたり馬鹿にされたりしなくちゃいけないの?』


これが今現在「プロ」と「アマチュア」を決定的に分かつ境界線です。そしてこの問題ついて参考になるのがkude氏の文章です。

個人的には、UGC(ユーザー生成コンテンツ)やCGM消費者生成メディア)というものは、コンテンツビジネスの延長線上ではなく、サークル活動の延長線上で捉えたほうがしっくりくるような気がする。


かつては半径何メートルかの同好の士によって行われていたそれらの活動が、インターネットによって、『メディア』と呼ばれるまでの大規模なものになった、と。


UGCCGMをサークル活動(の成果物)として捉えれば、それをビジネスに乗っけるのがいかに難しいことか分かる。
サークル活動を事業化しようとしても、「自分はサークル活動という気楽さが好きなんだ」と反対するメンバーが必ず現れ、挫折するに違いない。


文化祭の模擬店のように販売するところまでをサークル活動とすれば(同人誌活動なんかは、こうした感じが強いのかな)、多少はビジネスに乗っけられるだろうけど、これだって基本的には「儲けは二の次」の域を超えないだろう。


なので、コンテンツビジネスとしては、自由にサークル活動をさせておいて、そこから生まれる成果物の中からこれはというものをピックアップして商品として販売するという、つまりは現状のやり方以外に手はないように思う。


ということで、個人的には、UGCCGMにコンテンツビジネスの未来を期待するのはやめておいたほうがいいだろうと思っている。


「そこ」にクリエイターもコンテンツも存在せず、JASRACモデルも通用しないのは、「そこ」がビジネスの場じゃないからだろう。


どうにかして「そこ」を商業地として開拓したい気持ちはわかるけれど、「開拓したら土地が枯れた」なんてことになったりしてね。


そんなことよりも、「これからの時代、プロの作品をいかに売るか」というところを真正面から考えることでしか、コンテンツビジネスの未来は切り開けないだろうとぼくは思う。

ーーadapted from http://kude.exblog.jp/9983448


Kude氏は、『今現在騒がれているUGCという現象も、結局のところ“同人サークル活動”の延長戦でしかないわけだから、そこにビジネス市場を見いだすことは出来ない』と述べています。そして中盤以降、『「アマチュア型」のUGCを商業化しようとすれば、思わぬ事態を引き起こしかねない』と警鐘を鳴らしています。



個人的に「ネット発リアルへ」のコンテンツが中々生まれてこない原因の一つがここにあると思っています。「アマチュア型」の人たちの作品を見たメジャーレーベルのスカウトマンが『ウチで働いてみません?』と誘ったとしても、恐らく彼らは二つ返事をしないはずです。何故なら、彼らにはコンテンツ以外の実生活があり、それを天秤にかけてまでコンテンツと付き合っていこうという覚悟がないからです。彼らの中にコンテンツとは趣味として付き合っていきたいという「選択的アマチュア意識」がある以上、そこにビジネスを見いだすことは難しいでしょう。なんといっても、彼らは“素人”なのですから。


また、「アマチュア型」の商業化に関してニコニコ動画で活躍している「わかむらP」のインタビュー記事も参考になります。


わかむらP 

「歌ってみた」やVOCALOIDの人も、みんなニコニコでは収入ゼロでやってるじゃないですか。そういうところに、たとえば「CDにしませんか」「DVDにしませんか」という話がいったとき、たぶん相場を知らない人たちがいっぱいいるんですよ。で、そういう人たちがたくさん出てきたときに、業界自体のダンピングが起きる可能性があるな、と思っていて、それがぼくは最近すごく気になるんです。ニコニコ世代のクリエイターが羽ばたいたとき、それまでゴハンを食べられてきた人たちが食べられないようになってはいけないと思うんですよね。先駆の同業者に迷惑をかけるのは良くない。それは「値引き」とか「デフレ」ってこととは意味が違いますから。


プロは、自分の価格をこれ以上絶対に落としちゃいけないラインを持っているものなんですね。それはもちろん時間がかかっているから、その時間に対しての請求をしなきゃいけないというのと、会社の場合は、その会社を維持するためにもお金が必要だから。個人で動画制作をするなら、ソフトやPC、住んでるところの家賃なども含めた全部で回ってるわけじゃないですか。で、そのときに例えば5分の動画を1万円でいいですよ」と受ける人たちが出てきちゃったりすると、そこが成り立たなくなってくる。ニコニコで名前が売れるとそういう商業的な話もあったりするので、その時、そこだけはみなさんお気を付けになってください。


——業界が崩壊したあとじゃ遅い。


わかむらP 

そう。それに業界が崩壊しなくても、ニコニコ上がりの新人はその価格でいいんだ、という暫定レベルになったとしても、その人たちがいつちゃんとした給料をもらえるようになるの?という、結局は自分のクビを締めることになりますよね。だから音楽を本気でやりたいと思ってるんだったら、本当にちゃんとした金額を請求しないとダメなんです。最初は新人金額でもいいんだけど、いつまでもニコニコ価格とか、タダでいいや、とかやっていると、本当に痛い目を見ると思うし、どんなに売れてもバイトしながらじゃなきゃ音楽できなくなるとか、そういう悲惨なことになるので。


adapted from http://www.cyzo.com/2010/01/post_3593.html


わかむらP氏はプロのクリエイターながらニコニコ動画で活動しており、現在の「アマチュア型」UGCの商業化に関しての問題点を指摘しています。特に僕が注目したのは、彼らのコンテンツを商業化するにあたって、その「アマチュア意識」は最終的に“プロ”業界にダンピング(不当廉売、必要以上に安い値段で商品を売買すること)を引き起こすのではないか、という点です。これはかなり説得力があるなと思わず感動しました。僕は前の記事で、『消費者がUGCに流れていくプロセスで「消費態度の変化」が現れる』と書きましたが、まさにこの問題と直結していると感じます。


消費者がUCGに流れていく理由は、ハイクオリティの作品が無料で公開されていて、その制作者との距離が密接だからなのでしょう。そして、それは先ほども述べたように、テクノロジカル・ディバイドが消え、質の高いコンテンツが「アマチュア意識」ーー《自分の作品を公開したい》のもと公開されているからです。しかし、よくよく考えてみれば、そのようなハイクオリティな作品が無料で公開され続けていることは奇妙なことです。


しかし、僕はこの状況は肯定的なスタンスで捉えています。これは一見「ゼロ年代最後の日に」で述べた「無責任な消費態度」についての議論と矛盾しますが、「アマチュア型」において制作者と消費者の間に単純な《見て貰いたい》→《見たい》という関係がなりたっている以上、“空気”ように消費されているとは言い切れません。僕は以前、UGCの制作者はみな「アマチュア型」や「ネタ型」ではないと考えていました。しかし、制作者と消費者の関係性も多様であることが見えてきた今、事情が異なる彼らの領域を侵すことはかえって好ましくないと思い直しました。お許し願います。


ですが、わかむらPが指摘するように「アマチュア型」「ネタ型」のような消費形態が恒常的になってしまうと、消費者の間に『このクオリティの作品が無料で公開されているのだから、これと同じくらいの作品にはお金を払う必要はないんだな』という消費感覚(もしくは金銭感覚)が根付いてしまう恐れがあります。それがわかむらPの指摘している「暫定レベル」なのだと思います。このタイプにおける消費感覚(もしくは提供感覚)が一般的になってしまうと、「コンテンツにお金を払う(請求する)」というビジネスモデル自体が崩壊する危険性があります。これは消費者にとってみれば好ましい事態なのかもしれません。しかし、UGCを越えたコンテンツ産業を考えたとき、お金が回らないビジネス市場に果たして未来はあるのでしょうか?もちろんクリエイターや関係職についている方々の生活の問題もそうですが、何より僕たちが本当に「おもしろい!」と言えるコンテンツ、つまりコンテンツの質は保証されうるのでしょうか。事実、お金をかければ良い作品が出来るとは限りませんが、お金(もしくは労働力)がかかっていない作品がキラーコンテンツになることはまずありえません。ここでは、金銭的対価がコンテンツの質とマス消費に少なからず 影響を持っているということを強調しておきます。


そして、最後の「AIR CONTENTS型」の解説に移ります。今現在、いわゆる“UGC”であると言われるのは恐らく上記の「ネタ型」「アマチュア型」の二つでしょう。そのような背景も相まって、UGCの商業化に関しては否定的な意見が為されています。僕も「ネタ型」「アマチュア型」のUGCを商業化する事は困難だと思っています。業界側の事情で“無理”という事ではなくて、彼らの中に「プロ意識」がなく、今のような流儀に居心地の良さを見いだしている以上、(僕もそうです)わざわざ商業化する必要性がないということです。それでも商業化を狙うメジャーレーベルは話題性と一時的な利益のために、彼らを搾取源として囲い込もうとしています。初音ミクの合同アルバムが出版されるとき、楽曲の著作権および著作隣接権はどうなっているのでしょうか?非常に気になります。


このようなネガティブな議論を続けてきましたが、果たして、WEB2.0で花開いたUGC/GCM文化は現時点で行き詰まり、サークル活動の延長で止まってしまうのでしょうか。


僕はそうは考えません。なぜなら、「アマチュア型」と「ネタ型」に埋め尽くされつつあるUGCの中にも、そう分類すべきでないコンテンツが確実に存在していると思っているからです。今まで、「ネット発リアルへ」のビジネスモデルは、《「アマチュア型」でデビュー》→《メジャーレコードが青田刈り》のただ一つでした。最近では「アマチュア型」の制作者、もしくはコミュニティサイトが主催するイベントなどもあるようですが、“ビジネス”か、と言われるとやはりそうではなくて、本当に乱暴な言い方だと思うのですが、“大規模なサークル活動”なのだと思います。技術的な問題より、意識的なところとして。何より彼らはそういった付き合い方をこれ以上なく楽しんでいるのですから。

  • AIR CONTENTS型とは


ネットの出現とWEB2.0が現実世界にもたらした一番の影響。それは梅田望夫氏がよく口にする「個のエンパワーメント(強化)」です。今まで自分の技能や主張を披露する場所に恵まれず、現実世界の大資本に従属せざるをえなかった個人が、ネットによって自分の可能性を高める機会を手に入れた。まさにここにあるのだと思います。


では、ニコニコ動画、pixiv、ピアプロなどに見られるUGCムーブメントには、その特徴は表れているでしょうか?


僕はあまりそう思えません。もちろん彼らを否定するわけではなくて、そういったWEB2.0的特性を最大限利用した上に発展してきたのか、と考えたときに、その発展を支えたのはユーザー間のコミュニティ意識と大多数のアマチュア意識であって、エンパワーされた個の力ではなかったのではないか、ということです。ネットというインフラを利用して、個人、もしくは少数で革命的なコンテンツ制作をしてきたクリエイターをUGC文化に見いだすにはあまりにも少なすぎます。そして、メジャーレーベルがことごとくUGCの商業化に失敗してきたのも、「アマチュア型」「ネタ型」UGCの表面的なクオリティばかりに注目し、制作者の意識的な部分を見落としていたからです。


しかし、これから必要になってくるのはネットを最大限利用して自分自身をエンパワーメントし、UGCキラーコンテンツたる作品を制作してくれるクリエイター、すなわちCreator of AIR CONTENTS(CoA)の人たちです。さんざん後回しにしてきましたが、ここでやっと「AC型」の定義をします。「AC型」とは、


《少なからず「プロ意識」を持ち、コンテンツを通じての自己実現を目標にコンテンツを制作し、インターネットで無料で公開している人たち》


の事を指します。先ほどの「アマチュア型」の議論でたとえ話としてスカウトの話を出しましたが、あの例で「アマチュア型」の人たちは乗り気にならないと述べましたが「AC型」の人たちは恐らく『しめた!』と思うはずです。もっと分かりやすいイメージを挙げるとすれば、「AC型」の人たちは「アルバイトで生計を立てながらオーディションを受けている劇団員」です。彼らCoAは、「趣味としてバンドをやっているサラリーマン」である「アマチュア型」の人たちとは明らかに異なっています。技術的なレベルではなくて、意識的なレベルで。

  • コンテンツ価値の最大化という考え方


では、何故そういったCoAは商業デビューしてこないのでしょうか?


もちろん、既に述べたようにUGCが「ネタ型」「アマチュア型」に埋め尽くされていて、意識的なレベルでの「AC型」の見分けがつきにくいという点も上げられます。これは「ゼロ年代最後の日に」で述べたとおり、「AC型」のUCGは「ネタ型」「アマチュア型」のUGCに混ざっているので、消費者の目には区別がつかず、その消費のされ方も変わりません。だからこそ才能あるCoAがどんどんネットを去ってしまいます。


しかし、もう一つ原因があるのではないでしょうか。それは、「コンテンツ価値の最大化が為されていない」という点です。そもそもコンテンツとはどのような時に一番いい働きをするのでしょうか。それは、より多くの人に向けて発信され、享受されているときです。ここでコンテンツとは「メディアを通して表現され、人に何らかの働きかけをする情報的な作品」と簡単に定義しておきます。UGCは基本的にユーザー投稿サイト、もしくは自作サイトのみで公開されています。しかし、リアルのコンテンツビジネスを見れば、コンテンツの収益構造の基本は2次利用。映画の例を挙げれば、劇場興行→雑誌特集→タイアップ商品の発売→各種パッケージ販売→サントラ発売→ムック本発売→TV放送→海外への権利売買…と、一つのコンテンツの価値を最大限に利用して成り立っています。この過程で多くのユーザーと収益を獲得していく訳です。映画などは、劇場公開だけでは製作費の回収など到底出来ません。しかし、今現在、ニコニコ動画で人気の作品の再生数をみても、多くて100万再生。1ユーザーが10回リピートするとすれば、ユニークユーザーは10万人。もっと少ないかもしれません。これはひとえにコンテンツ価値を最小限にとどめてしまっているからです。動画サイトで一時的に話題になったとしても、とてもリアルのコンテンツと肩を並べることは出来ません。


「ネット発リアルへ」がなかなか表れないもう一つの理由は、未だにWEBから「リアル」という広大な市場において、マスに通用するコンテンツが生まれてきていない点に集約されそうです。今のようにコンテンツ価値を最小限に抑えてしまうスキームでは、プロ(志向)意識のあるAIR CONTENTSですら“同人作品”としか見られないままですし、今現在UGCの殆どが二次創作で賄われているように、それらはマスに通用する一次コンテンツ(テレビアニメ、週刊誌でのマンガ等…)への従属を意味します。『私たちにはあなた方のような作品を作る力はありません』と。WEBを通じて本気でコンテンツを制作し、“プロ”としての活動を目標に掲げるのであれば、週刊誌に連載されてもおかしくないレベルのマンガ、平積みされていたら思わず買ってしまうレベルの小説、テレビで放送されていても遜色ないレベルの映像を“こちら側”からリアルへ発信していく必要があるのだと思います。プロの小説家を志す若者をして、『小説大賞に応募なんかするより、ネットで活動した方が断然いい』と言わしめんインフラが出来れば、今よりもっともっと面白い作品が出てくると僕は思っています。


また、出版社の未来とクリエイターのフリーランス化についての議論で、編集家の竹熊健太郎氏は次のようなことを述べています。


しかし、その場合「出版責任」は誰がとるのか、という問題が残ります。むろんそれは著者一人が背負えばよいと考える人もいるでしょうが、現実問題として、自分の書いた(描いた)ものに、本当の意味で最後まで責任を負える著者が、どれだけいるというのでしょうか。


「自分の発言や作品に責任を負う」ということは、生やさしいものではありません。ざっと考えても著作権問題や猥褻問題、名誉毀損、果ては「おまえの書いた●●という登場人物は俺だろう。おまえのパソコンで俺の脳波を毎日読み取って書いているんだろう」なんていう「電波」を受信する人の相手まで、場合によってはしなければならないということです。


日本は言論の自由憲法で保障されてはいますが、多くの場合それがタテマエに過ぎないことは、本を書いて出版したことのある人ならおわかりかと思います。たとえば普通に出版社が介在する本の場合、版元の編集者が、本の内容にうるさく口を出してきますが、これは、


(1) より売れる本にするため。
(2) 内容に出版社としての責任をとるため(出版責任を著者と分担する)。


という、主にふたつの理由で、そうしてくるわけです。特に重要なのが(2)でして、校正・校閲を含めた内容のクオリティ管理だけではなく、その内容に対するクレーム対応(著作権侵害、猥褻関係、名誉毀損その他)などのリスク管理も入ってきます。もちろん原理的には、著者がすべての責任を負う形で自由な内容の著作物を出版(公開)することは可能です。しかしその場合は「著者=編集者=出版社」ということになります。これの意味は、自分の著作を公開することによって生じるすべての責任(クレーム処理を含む)を「個人として」負わなければならない、ということであります。


adapted from http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-9fd2.html


出版社やレコード会社など、クリエイターを雇う側の存在(メディエイター)はしばし、中間搾取層として批判されたりもしますが、事実竹熊氏の指摘するように「編集責任」を持ってくれたり、自誌掲載や売り込み、仕事の斡旋などの「メディア」としての大きな力を保有していたり、新人クリエイターの発掘、育成を引き受けたりと、「コンテンツの価値の最大化」に関して彼らは誰よりもエキスパートだといえます。ですからACを本当に息の長いビジネスモデルにすることを考えたときに、《誰がどういった形でACをメディエイトしていくのか》という課題は残ります。ですから、僕は「AIR CONTENTSの価値の最大化を図るメディエイター」がこれから必要になってくると考えています。


それがどのようなカタチになるのか、まだ想像できません。ですが、その前に僕たちがやらなくてはいけないことは、CoAの人たちが既存のUGCムーブメントに飲み込まれて、正当な評価を受ける機会を逃していると言うことを認識することです。


そして、AIR CONTENTSを論じる際に、まず提示しなくてはいけないのに未だに提示できていない「具体例」を見つけること。『本当にそんな人達いるの?』と一蹴されてしまえば全く言い返せません。


そういうわけでAIR CONTENTS当面の目標はCoAの存在の確認ということになりそうです。その為にはUGCムーブメントを牽引するクリエイターの方々に色々お話を伺う必要があることは間違いないと思うのですが、果たしてこのような怪しいブログの取材に答えてくれる人達はいらっしゃるのか…。


まだまだ、AIR CONTENTSの体系化は先になりそうです。