CGMの現在と未来に行ってきたよ!後編:パネルディスカッション「日本型CGMの海外進出」「N次創作を前提としたコンテンツプラットフォーム作り」


今回は後半のお二人のお話をご紹介する予定でしたが、こちらの都合により記事の編成を変更してお送りしています。


えー、恋塚さんと濱野さんのお話はとても分かりやすかったのですが、公開講座ということもあって若干内容が一般向けでしたので、改めてご紹介をする必要もないかな、と個人的に判断しました。


それより、その後のパネルディスカッションの方が興味深かったのでご紹介したいと思います。


第一のテーマは「日本型CGMの海外進出」


後藤さんや伊藤さんのお話によれば、初音ミクを筆頭とする日本型CGM文化は意外と海外でポジティブに受け入れられているとか。ただ、海外に於いて任天堂がNINTENDOであるように、初音ミクがMIKUとして捉えられたかといえば、そういう事ではなくて、飽くまで『おいおい、日本がまたなんかおもしろいことやってるぜ』的な風潮だったそうです。


まぁそうですよね。UGC文化が“同人活動”の延長にあることは今や常識ですし、そういう日本独特の空気が外国の方々に伝わることは非常に難しいと思います。そもそも、現状どうして日本型CGM文化が斯くの如き顛末を辿ったのかという答えは未だに出ていないわけですし。濱野さんが講演の中で『GCMという考え方は実はまったく新しいモノではなくて、2000年代、インターネットの爆発的普及によりそのインフラが整っただけ』と仰っていましたが、それは飽くまで社会学的な見地からの分析であって、「なぜ初音ミクが流行ったのか」という現象単位での答えはまだ出ていないんじゃないかなぁ。


「パッケージが可愛かった」「架空の女の子をプロデュースするという発想が新しかった」「ニコニコ動画のおかげ」「vocaloidという技術がそもそも優れていた」「大規模制作から少数制作へという流れにマッチしていた」…。


こうして挙げてみればきりがありません。これら全てが一因だったのかもしれないし、ここに挙がっていない決定的な動因があったのかもしれない。


初音ミク鏡音リン・レン巡音ルカの発売順が逆だったら?」「初音ミクの声優が藤田咲じゃなかったら?」「“みくみくにしてあげる♪”や“メルト”が発表されなかったら?」…。


歴史の中に鱈レバーを夢想したところで何が得られるわけでもありませんが、ともかく日本のGCM文化が何か単一の理由でこういった発展をしてきた、という論調に一石投じてみたりするわけです。


それにしてもCGM文化を牽引してきた名も無き不特定大多数(crowd in cloud)の動向は常にコンテンツプロバイダーの予想の一次元上を行きますね。プロバイダー側の座標空間では消費者の動向を読むことはなかなかどうして難しい。改めて、コンテンツがコモディティ化することはなさそうだなと胸をなで下ろします。


さて、第二の議題は「N次創作を前提としたコンテンツプラットフォーム作り」ですが、簡単に説明してしまえば、『これからは開発段階でCGM展開を視野に入れたサービスがスタンダードになるのか』ということですね。


個人的な意見は『うん』という一言に尽きます。が、まぁこれはそこまで深く突っ込まないでもいいのかな。


また、そういったコンテンツプラットフォーム制作につけて濱野さんが「マイクロペイメントの導入」を指摘していたのが印象的でした。「マイクロペイメント」は拙記事「ゼロ年代最後の日に」でも取り上げているP to P(prosumer to prosumer)の直接課金システム、いわゆる“投げ銭”の事です。濱野さんは『N次創作を前提としたコンテンツプラットフォームを作るならば、プロシューマーへの制作インセンティブも兼ねた上でマイクロペイメントを導入すべきではないか』と指摘。これに対して恋塚さんは『今現在のような、公式チャンネルと一般動画という“プロ”と“アマ”の敷居を取り払い、二者を混在させたサービスにしていくのであれば、肩書上での段階的な“プロ”“アマ”という区別ではなく、コンテンツの滑らかな位置づけとしてマイクロペイメント(金銭的評価)は必要になってくる』(意訳)とコメントしました。


恋塚さんの発言を聞いていて、どこかマイクロペイメントの導入には消極的だなぁという印象を受けたのですが、同氏が『とりあえずは有料会員の月額課金で黒字化の目処が立っている』とも述べているように、どうやらそれは図星かと。それに、濱野さんへの回答も裏を返せば『“プロ”と“アマ”を混在させない限りはマイクロペイメントの導入はありえない』ともとれますし、公式チャンネルに対しての一般動画(=UGC)は飽くまでアマチュアの作品である、という運営側の姿勢も見て取れなくもない。飽くまで私見ですが。


伊藤さんも『CGM文化はある種の社会的規範(親が子を無償で育てるような、ユーザー間の利他意識)の上に成り立ってきたものであるから、次世代の評価システム(制作インセンティブ)を考えるとしても金銭的対価とはまた違ったものを模索していきたい』(意訳)とコメント。


実際のところ、濱野さんのマイクロペイメントの議論自体は特段新しいわけではなくて、数年前からUGCシーンで結構声高に主張されていることです。それでも依然として導入がなされないのは一体どういうことか。


しかし、コンテンツプラットフォームの制作側であるお二人が揃ってマイクロペイメントの導入に難色を示したことは、よくよく考えてみれば自然な反応ではあるんですよね。


まず第一にインフラが整備されていないということ。マイクロペイメントの本質は“投げ銭”です。投げ銭というものを翻って考えてみれば、そこには「小銭は簡単に投げることが出来る」という暗黙の前提があるわけですよね。ポケットからだして、ぽいっと投げることが出来る。そういう心理的、物理的障壁が極めて薄いからこそ“投げ銭”という考え方は活きる。しかし、現状ネット上でそのような「小銭を投げやすい」インフラが整っているかと言えばまったくそうではないですよね。100円の古書を買うのにも、クレジットカードは依然として必要だし、数あるネット電子マネーのアライアンスは目処が立たず、サイトごとに使用可能な通貨が変わる。同じ国内なのにw


つまりは「リアルで煩雑な事柄が手軽に行える」というネットの特性を全く活かせていないんですよね。僕の周りでもクレジットカードを持っていないからamazonで買い物が出来ないと嘆いている友人がいます。もちろん、彼がネットに不慣れだということも否めませんよ。だけど、これからの時代本当にEコマースを主流に持ち上げるのであれば、そういった層こそ取り込んでいかないといけないと感じるのですが。


そういった背景から電子決済のファシリテーションは急務です。そしてリアルのような他社間のアライアンスも必要だと思います。つーかどうせ流行ってねーんだから統合しちまえばいんだうわなにするやめr


第二に、マイクロペイメントの仕組みは企業側にあまり直接的なメリットをもたらさないと言うことです。いくらプロシューマーへの制作インセンティブになって新規参入が増えるとはいえ、実際にお金が動いているのはP to P。その流れによって企業側がなにか利益を得るかと言えばそうではないですよね。その証拠に、今現在ニコニコ動画で導入されているマイクロペイメントらしき機能であるニコニ広告はニコニコポイントでしか出資出来ないし、ニコニコポイントの購入はニコニコ動画でしか出来ない。つまり…まぁいいや。


第三に、マイクロペイメントが導入されたとして、それがどのような働きをするのか実証データが少なすぎるということですよね。UGCシーンが「ネタ型」と「アマチュア型」で埋め尽くされている以上、金銭的対価という責任は、ネタ意識やアマチュア意識では背負いきれない気がしてなりません。


いやはや。またAIR CONTENTSの体系化は振り出しに戻りつつあるわけですね。ただ、マイクロペイメントはまだどこも大手が実装していないから、何とも言えないんですけどね。どこもやらないんなら俺がそのうちやっちゃうよ?


はい。というわけで、三回に分けてお伝えしてきた「CGMの現在と未来」レポートは今回をもって終了ということになります。またこういうイベントに参加する機会があれば、積極的にお伝えしていきたいと思いますので、少しは期待して待っててくださいね!ではでは。

CGMの現在と未来に行ってきたよ!中編:伊藤博之さん「初音ミク as an interface」


今回は初音ミクの発売元でお馴染み、クリプトン・フィーチャーメディア社長の伊藤博之さんのお話を紹介させていただきます。


題名から分かるとおり、伊藤さんは初音ミクをインターフェース、つまり人と人との媒介物だと捉えているようです。インターフェースの分かりやすい例は「言語」でしょうか。つまり、誰にも彼にも使われることが出来る、共有物だそうです。


つまり、N次創作でいう上流というか源流たる一次創作作品の事を指しているんだと思います。初音ミクというソフトウェアのことではなくて、歌声合成機能をも含めたキャラクターとしての初音ミクのことでしょうね。


そして、伊藤さんは現行の著作権法はこの初音ミクのインターフェース性を阻害するものだとも述べています。


そもそも著作権とは、「他人が作った作品を無断で使用してはいけない」という考えの基に制定されており、著作権法が制定されるまでは、全ての著作物は原則として自由に使用することが出来たそうです。そして、一旦著作権法が改正され、全ての著作物が無断利用が出来なくなり、現在はその上で著作者の許諾無しに利用できる範囲を制定し直したとか。


しかし、初音ミクをはじめとするUCGムーブメントは、明らかにN次創作の力に寄るところが大きいことは間違い有りません。そして、その中心にあるのがクリプトンが権利を所有している「初音ミク」という商品ですね。それが先ほど紹介した“インターフェース”という考え方に基づいた初音ミクの在り方です。しかし、インターフェース(=N次創作)の基本理念である「誰もが自由に利用できる」という考え方と、「誰にも彼にも勝手に使われては困る」という現行の著作権法の理念は背反します。しかしながら、UGCという新しいムーブメントを利用したマーケティングを行う際に、現行の著作権法は権利者の利益を守るというより、むしろ機会損失を促してしまっているような気がします。


そういうダブルバインドにあって、クリプトンのとった手法はまさにweb3.0的マーケティングケーススタディであると言えます。


それがUGC型コミュニティサイト「ピアプロ」の設立と、それに際しての「PCL(ピアプロ・キャラクター・ライセンス)」の制定です。


PCLは、自社のキャラクター商標の二次利用に際してのガイドラインです。クリプトン側の見解として、『二次創作はファンアートであり、それらをむげにすることはしたくない』そうであり、ガイドラインに従う限り、それらの二次創作作品は権利侵害に当たらないようにした、という訳ですね。そして、ピアプロの役割がそのガイドラインの有効範囲の可視化です。ピアプロはクリプトンが直轄で運営するコミュニティサイトであり、ピアプロ内では権利関係はクリアになっています。


また、ピアプロ内の二次創作作品をN次創作する際は、ピアプロ・リンクという『あなたの作品を元に作品を作りましたよ』という断りを入れることで「創作ツリー」が目に見るようになっています。また、これらは非営利目的(利益を得る目的でなければある程度は有償配布可)でのみの利用が可能となっています。


詳しくは解説動画をご覧下さい。




さて。ここから感想。
著作権法。んー。これからどうなってくんだろう。現行の著作権法では(PCLの範囲外)原著作物に対しての二次創作物の権利は全て現著作権者に帰属するわけでしょ。だから、まぁ言い方は悪いと思うけど、殆どの二次創作物は現著作権者の温情を賜っているだけで、その二次創作著作権は無いに等しいわけですよね。だから、何かにつけて目を反らしているけど、UGCシーンはグレーなことで満ちている。『まぁこれくらいは大丈夫だよね…』という常識に則った判断ですら、法律的には危なかったりする。だから、ネットで自作イラストを無断で利用されて色々問題になることが多々あるけど、それが何かの二次創作だったりすると、権利の帰属とかどうなっているのか、色々とグレーだよね。その作品自体は二次創作者の著作物だし、その作品の意匠は原著作者に帰属するし…。


はっきり言ってこのままなぁなぁにしておくのは後々面倒だと思うけどなぁ。


そういう意味でPCLとピアプロはweb3.0的なんですよね。


今まで、不明瞭だった権利関係を可視化して、著作物の権利帰属率なんかも分かるようになった。クリプトンとしても、お膝元でなら安心して自社商標の二次創作許可を出せる。プロシューマーとしても、自分の作品に変な負い目を追うことなく思い切り創作とコミュニケーションを楽しめる。こういう関係がこれからの理想型だと思う。


これも友達からの受け売りだけど、『二次創作やネタにされたぐらいで原著作物の利権が侵されることはなく、むしろ原著作物の強度、認知度が増すだけ』というのは案外正しいような気がする。二次創作されるっていうことは、その作品のポテンシャルというか潜在的なエンターテイメント性が間違いなくあるっていうことだし、N次創作ツリーの大きさや樹齢はそのまま作品の耐久度や普遍性の証左になる。一種のステイタスですよね。


ジブリ作品なんかが良い例じゃないですか。「天空の城ラピュタ」がテレビで放映される時、2chtwitterでみんなが『バルス!』なんて書き込み合っていますけど、あれは結局“ラピュタ”が皆の間で普遍的な存在だからでしょう。UGCムーブメントでどうして二次創作が主流かといえば、つまりは共通意識の共有に尽きますよね。『自分が観ているこの作品も、みんなが自分と同じ気持ちで観ている』といういわゆる疑似同期感覚、というか碇シンジ君的な『僕は1人じゃない…!』という他者承認の自己的内在があるわけで。「同じ作品を認知している」という事実はコミュニケーションの端緒になるには十分なんですね。だからこそ、傑作と呼ばれるコンテンツは普遍性が強い。誰もが同じ目線で作品を通じたコミュニケーションを営むことが出来る。これって、実は僕の思い描くコンテンツの理想像と重なってるんですよね。


とまぁつまり僕は『コンテンツはコミュニケーションの媒介をしろ』と言いたいんです。コンテンツの本質は「人を楽しませること」でしょう。だったら、作品を通じてのユーザーの交流もコンテンツの仕事の範疇です。特にインターネットが普及していくこれからの時代「どう大勢の人を惹き付けられるか」もコンテンツの重要な要素だと思います。


そういう意味で、これから著作権法の在り方はどんどん議論されていいと思います。全部が全部初音ミクのようにはなれないんだろうけど、企業としてはPCLという選択肢が出来たわけですよね。著作権法もいつまでも第三者目線で事を進めていないで、企業や消費者を鑑みて欲しい。コンテンツは知的財産と読んで名の通り実態がなく、ステレオタイプも存在しないわけだから、それを取り締まる著作権法は常にフレキシブルであるべきなんじゃないかな、と感じます。


さて、次回は恋(恋は異字体)塚昭彦さん(DWANGO)と濱野智史さん(日本技芸)、パネルディスカッション「初音ミクの海外進出」についてお伝えしていきたいと思います。ではでは。

CGMの現在と未来に行ってきたよ!前編:剣持秀紀さん「歌声合成の過去、現在、未来」


http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1003/11/news053.html


http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1003/11/news078.html


さて、具体的な講演内容については、IT Mediaでとても良くまとめられているので上記の記事を参照して下さい。というかプロが書いてるんだから当然っちゃ当然ですが。


さて、結構濃密なお話だったので何回かに分けることにします。今回は一番始め剣持秀紀さん(YAMAHA)のお話を紹介していきます。


剣持さんは僕なんかは普段あまりコミットしないvocaloidの技術的側面を分かりやすく解説していただきました。歌声合成の技術の歴史がまさか半世紀も前に遡るとは思っていませんでした。かつては完全な合成音タイプ(機械音)が主流だったようですが、終着点が人間の声である以上、やはり機械音には限界があり、現在、そして未来はvocaloidなどにみられるサンプリング型の手法が主流となっていくだろうとのことでした。


また、UGCの未来を考えるにあたり、剣持さんは三つの要素の拡大が必要だそうです。


まず、「声のバリエーションの拡大」。


現在、いわゆるUGC型の音楽と言えばJ-POPが主流ですが、これからは、もっと幅広い音楽ジャンルでも歌声合成の技術を活かしたいそうです。確かに私見で申し訳ないのですが、初音ミクの曲調ってなんか似たり寄ったりだったりするんですよねぇ。だからなかなかお気に入りの曲を探すのが難しい。事実、これが参入障壁になってたりもするのでは?


加えて、言語バリエーションの拡大だそうです。ご存じ初音ミクは日本語しか喋られません。巡音ルカは英語もレパートリーにありますが、まだ改良が必要のように思われますし。そうそう、会場で、剣持さんが本邦初公開の音声を聞かせてくれたのですが、それはスペイン語の歌声で、ありきたりの反応かもしれませんが、本当に人間が歌っているようでした。正直初音ミクの日本語の歌より全然自然な歌声でした。なんだろう。言語によって合成しやすいとかしにくいとかというのがあるのかなぁ。それと、歌声から歌声以外への応用も研究中だそうです。普通の発話ではなく、歌声と発話の中間……例えば焼き芋屋さんの『い〜しぃや〜きぃもぉ〜』といったかけ声のような、絶対音感の人が耳にすれば譜面に起こせてしまうような類の声なら、発話よりも簡単に合成できるのではないか、ということでした。


まぁ、確かに歌声以外の合声技術開発は自然な流れですよねぇ。だって、僕たちの知らない間にロボットの開発もめちゃくちゃ発展しているわけですし、いざアトムが出来上がった!っていうときにちゃんと喋るためのソフトが無いなんてこともあり得ますからね。テレビで介護ロボットなんかをみていると、やっぱり発話は拙い。別にゆっくりボイスでもいいのかもしれないけど、日本語は同音異語が多いし、プログラムに文脈を判断させて正しい発音をさせるっていう技術も必要になってくると思う。むしろロボット開発より、合声ソフト開発の方が急務だったりして。これから大学の工学部でもそういう分野が主流になってきたりしてね。


濱野さんも仰っていましたけど、声を張るのが苦手な人のために代弁をソフトに頼むなんて未来も面白いかもしれません。「プレゼン能力?なにそれおいしいの?」的な。


後はまぁ声優のオルタナティブですよね。初音ミクがここまで流行った理由の一つに、自分の作った歌を従順に歌って貰えるっていう個人主義(もしくはただ単に友達が少ない)があるわけでしょ。竜騎士07なんかがこれからのクリエイターのロールモデルというかケーススタディになるのであれば、自らの欲望赴くままに女の子に喋らせられるだなんて、3次元に見切りをつけてらっしゃる紳士諸賢に歓迎されないわけ無いじゃないですか。


閑話休題


以前友達が『アニメは、そのキャラクターが喋っているように見えない。どうしても声優の人となりがちらついて鬱陶しい』なんてアニメファンの人から糾弾されそうなことを宣っていたのですが、まぁ確かに一理あるかなと。たしかに、見た目と設定が違うだけで声は一緒って変な感じですよねぇ。それでも違和感を覚えにくいのは、キャラクターというものが見た目と設定に帰依しているからなんでしょうか。勿論声優さん達の演技力の賜とも言えます。この間友達とカラオケに行ってアフレコなるものをやってみましたが、まぁ酷い酷い。本当に今まで馬鹿にしてきた人達に謝りたくなりましたよ。


そういう意味でも、自分の望んだ声色、声質で自分の望んだ事を喋ってくれる存在はニーズがあるんだろうなぁ。


ただ、僕はそういう流れは好きではありませんけどね。
なんでも楽をしようとしたり、独りよがりになっていたら本当に良いコンテンツなんか作れるわけねーじゃん、というのが僕の意見。


次に「利用場面の拡大」。


今はニコニコ動画ピアプロでのニッチ(オタク層)向けの利用が主流ですが、将来は、オーケストラやライブなどでの利用が増えてもいいんじゃないか、ということでした。


んー…。それはどうかなぁ…。
既存の音楽ジャンルに対応するということではなくて、飽くまでライブでvocaloidを使用するというのはどうにも些末な気がしてならない。ライブの一番の価値はスピーカー越しにしか聴いたことのない音楽、声楽を直に聴くことが出来るという点にあるわけですよね。普通のライブに行って、実際は録音テープに口パクだったらなんか損した気分になるように、わざわざ出向いて打ち込みの音楽を聴くって、なんか意味が薄いような気がするのですが。


それだったら、歌い手(人間)の声を、初音ミク調に変換する技術の方が面白い気がする。初音ミクというか、つまりは変声技術ですよね。またまたカラオケの話なのですが、その機種にたまたま変声機能がついていて、早々に飽きてしまった僕たちは途中から延々それで遊んでいました。そこで感じたことは、『やっぱり異性の声って憧れるよなぁ』ということでした。男なら女声で、女なら男声で歌ってみたいと思う事は誰しもあるはず。だって、普通の声域だったら異性の歌とか原曲のキーで歌えるはずないですよ。女性ボーカル好きな僕としては大いにカラオケの興が削がれてます。


だから、次世代vocaloidは自分の声を誰かの声に似せることが出来るソフトウェアがいいと思います!


ただ、似せられる方はたまったもんじゃないけどね…。


最後に「ユーザー層の拡大」。


初音ミクが大ヒットしたとはいえ、それはニッチなDTM市場でのことであって、既存の音楽シーンを震撼させる程のヒットではなかったというのが本当のところであり、今後は歌声合成の普遍化を目指したい、そうです。


初音ミク騒動のとき、流行にのって買ってみたはいいけど、普通に難しくて放置、という例が結構あったみたいですしね。立ち返れば初音ミクって打ち込みソフトですよ。あのツーテールの可愛い女の子なんてエディット画面のどこにも出てこないんですよ。ミク愛なんかよりもまず第一に、作曲能力がなければ彼女は振り向いてくれません。そう言う意味で彼女は軽い女の子ではないのです。


『わたし、音楽が出来ないおとこのひととはおつきあいできませんっ!』


ってね。ざまぁw


さて、下らない話はさておき、これはこれからのUGCムーブメントに大きく関わってくる問題だといえるでしょう。何かの記事で触れましたが、UGCの、作り手に対しての制作インセンティブとして、「素人でも簡単に作れる」というのがあります。いくらITの発展でテクノロジカル・ディバイドが是正されたとは言え、ずぶの素人がコンテンツを制作できる程甘くはありません。ほんの少しハードルが下がっただけにすぎません。売り手としては一時的なブームで自社商品の売り上げが伸びれば御の字なのかもしれませんが、WEB3.0的マーケティングを見据えれば、そんな牧歌的な体制ではいられないと思います。発売後もまだまだやることはあるのです。これについては次回詳しくご紹介させていただきます。


つまり、ここで重要なのは制作過程のファシリテーションです。
参入障壁を下げることによってさらなるユーザーを獲得するというのは常套手段ではありますが、制作を不特定多数になげうつUGCマーケティングにおいては重要なポイントです。こういう技術的な話には僕は突っ込めないので、僕でも作られるようなソフトウェアを開発して下さいとお願いするばかりです。


ただ、まぁこれもよく言われることですが、技術的ハードルによる参入障壁がコンテンツのクオリティを保証しているということも否定できません。初音ミク文化の隆盛もそういう不文律の下に発展したのかもしれません。でも必ずしもそうとは言えない気がします。例えば絵画。あれって、究極的には鉛筆と紙だけで表現されているという、VFX全盛のハリウッドに比べれば本当に簡素なアートですよね。でも、だからといって下等な表現手法かと言えば、全くそんなことはなくて、むしろ一本の鉛筆の方がコンピューターソフトよりも可能性を秘めているといっても過言ではありません。だから、玉石混淆を厭わないのであれば、ハードルの撤去を断行しても構わないと思います。


さて、次回はクリプトンフィーチャーメディアの伊藤博之さんのお話を個人的な感想と共にお送りしたいと思います。ではでは。

アニメでもマンガでもなく

もう3月だというのに、今日は全国的に季節外れの大雪だった。そういう事情から外出することもはばかられ、僕は一日中部屋にこもって本を読んでいた。そうしているうちに、数年ぶりに買ったはやみねかおる先生の小説も読み終わってしまい、僕はこの暇をどうにか有効活用しようと思い、以前から書いておこうと思っていた僕のコンテンツ観をここにまとめてみることにした。


僕はコンテンツが好きだ。


もし「コンテンツ」という響きがどこかキザっぽく感じるのであれば、それは「アニメ」や「ゲーム」「マンガ」もしくは「小説」でもいい。そもそも「コンテンツ」という言葉自体そういったジャンルのモノの総称なのだから別に格好を付けるつもりはない。“そういった”という表現は曖昧かもしれない。というのも僕は自分のコンテンツ観があまり一般的でないことを最近人から指摘されてから、その好きにも色々な種類があることが分かったからだ。


人のコンテンツ観というものは、単純に『コンテンツのどういうところが好きですか?』という質問の答えに表れるような気がする。まぁ、ここでもコンテンツという考え方が想起しにくいのであれば、それを「アニメ」なり「マンガ」に変えてみてもかまわない。


ちなみに僕の答えは「面白いモノを作って人を楽しませるところ」。


こういう捉え方は意外と一般的でないらしい。何故かといえば、アニメもマンガも小説もゲームも、それを鑑賞することが好きという人が大半のようだからである。実のところ、僕は『アニメが好き』『ゲームが好き』という人を数多く知っているが、その人達と意見を交わしても、なかなか共感できないことが多々ある。その原因は分かっているつもりだ。


何を隠そう、僕はコンテンツの内容(変な表現…)自体にあまりこだわりがないのだ。


つまり、この作品は面白い、その作品は微妙、あの作品はつまらない、君の気に入った作品はどれ?という議論にあまり意味が感じられないのである。


どんな作品でもその作品を観て楽しむ人がいるのだから、たとえ自分があまり面白いと思えなくても、ただ自分の感性と作品が合わなかっただけであって、特定の誰かが悪いとは思えない。払ったお金は口惜しいけど。


それは僕にとってのコンテンツが「面白いモノを作って人を楽しませること」だからなのだと思う。こういう考えを持っている人がいて欲しいとは思うが、多くの人は「面白いモノを観て楽しまされること」が好きなんだろうとも思う。だから自分の好き嫌いがはっきりする。自分は楽しまされようとして観ているわけだから、その意に沿わなければ確かに気に入らない。当然だ。


そうは言っても、僕だってコンテンツを観て『凄い、面白い!』と感じることが全くないわけではない。むしろ、そう思うことの方が多い。内容そのものに特定のこだわりがないから、簡単に楽しまされてしまう。あまり乗り気でない映画でも、友人に連れられて二時間大きなスクリーンの前に座らせられれば、エンドロールの頃には思わず拍手をしたくなっている。特に好き嫌いがない分、ころっと楽しまされてしまうのである。


これがもし「僕がコンテンツを好きな理由」というレポートであれば、この辺で熱心なコンテンツ好きの人から『そんなことでコンテンツが好きと言えるか!』とおしかりを受けてしまいそうである。


でも。それでも僕はコンテンツが好きだ。


僕のコンテンツの消費感覚の強さが一般的なそれ以下であることは疑いがないが、コンテンツが好きだという事実は否定しようがない。


話をもどそう。僕が好きなのはコンテンツの「面白いモノを作って人を楽しませる」という点である。つまりは、消費するより提供するほうに興味があるといっていい。


とは言ったものの、僕はイラストが上手いわけでもないし、作曲が出来るわけでも、文才に富んでいるわけでもない。コンテンツにこだわりがあるのであれば、恐らく『俺ならここはこうする』という意識のもと、創作に精を出すことが可能だろう。だが、僕にはそれが出来ない。大概の場合、人の作品に『面白いなぁ』と感じてしまい、たとえ見えていたとしても、欠点や改善点を指摘できないのだ。


そんな考えを持つ僕をコンテンツはお呼びでないのだろうか。
そう結論づけてしまうのも当然だがむなしいだけなので、もう少し話を続けてみようと思う。


例えば、こんな問題があったとする。

【太字部のひらがなを漢字に直しなさい】


コンテンツをせいさくする

この問題、実は正解が2つあるのだが、お分かりだろうか?


一つは「制作」
もう一つは「製作」


この二つを区別なく使っている人もいるかもしれないが、ご存じの通りこの二つの「せいさく」は意味が違う。


まず「制作」。
これは作品の創作活動そのものを指す。そして制作者とは、作品そのものを作り上げる、イラストレーター、作詞家、作曲家、実演家、アニメーター、プログラマー、漫画家、小説家、映画監督などのことである。つまり、「制作」とは一般的に「コンテンツを作る」こととして想起される作業のことである。


では「製作」とはなんだろうか?


製作は、コンテンツの企画、統括、広報、販売、流通などの、“非開発”の業務をも含めて「コンテンツを作る」という意味だ。「製作委員会」と表記されるのは、そういう理由からである。


制作と異なり、製作は一般的に「コンテンツを作る作業」として認知されにくい。ある作品が人気になったとき、注目されるのはそれを実際に作った監督や、実演している俳優や声優、脚本家などであって企画を立案したプロデューサーや、それを宣伝した広報ではない。


一見したところ、非開発職は大した働きをしていない印象を受けてしまう役職ではあるが、僕はそういう仕事が絶対に必要だと思っている。本当に良いコンテンツを作るためには、才能ある制作者だけではどうしても足りない部分があると思うのだ。


僕の中で、コンテンツはエンターテイメントと同義である。
エンターテイメント。人を楽しませるモノ。娯楽。


だから、究極的にコンテンツはカスタマーのニーズを満たす必要があるとも思っている。つまり、コンテンツという概念は、消費者ありきの概念だと考えているのだ。見る人のことをちっとも考えていないコンテンツはコンテンツとは呼べない。


ここはコンテンツの捉え方によって意見が分かれるところだと思う。
芸術家肌の人なら、『大衆に迎合するコンテンツなど商品であって価値などない』と言うかもしれない。


そうだ。その通りなのだ。コンテンツは商品。それで何がいけないというのだろうか。


だってコンテンツは人を楽しませるモノだろう?


もちろん、完全にマーケティング優先で、制作者の主義も主張もない“空虚なコンテンツ”は面白いとは思わない。


なぜなら、どうしては分からないが、そういう作品はただ作っただけでは絶対に支持を得られないからだ。ここをあまり掘り下げるつもりはないが、「面白い」という概念は、それを媒介するモノに、作り手のしっかりとした『面白いモノを作ろう』意識が介在していないと働かないようなのである。


だから、「コンテンツを作る」という作業は、制作も、製作も、作り手の『面白いモノを作ろう』という意志と、受け手の『面白いモノを見たい』というニーズを上手にすりあわせた上に成り立つものなのだと思う。どちらかが欠けても本当に面白いコンテンツは生まれ得ない。難しい作業だ。


僕の中には『面白いモノを作りたい』という意識が確かにある。
それは『面白モノを見たい』という意識より、多くの部分を占めている。


そして、僕は制作より製作に向いているように思えるのだ。
コンテンツは好きだ。でも直接作ることは僕に多分向いてない。
でもどうにかして携わりたい。だから、制作(つく)るのではなく、製作(つく)りたい。


制作者の人達が一生懸命作ってくれる素晴らしい作品を、より一層素晴らしい“コンテンツ”へと昇華させる手伝いがしたい。


面白いモノを作って人を楽しませたい。
だから、僕は「アニメ」でも「マンガ」でもなく、「コンテンツ」という言葉を好む。
何故なら、「コンテンツ」こそ、僕のやりたいことをうまく表してくれているように思えるからだ。

慶應義塾大学SFC環境情報学部2010年度入学試験問題 小論文 合格者再現解答


問題は以下で確認して下さい。


http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/10/k20.html


(1)(500字以内)


電子図書館」構想が意味するところがつまりはクラウドコンピューティングであることは資料A-1から読み取ることが出来るが、この構想に近い理念を持つウィキペディアの現状を考えれば、それが最も機能するのは、資料A-2で述べられているように「真に世界に開かれたメディア」であるときである。つまり、アクセス端末の普及を含めたデジタルディバイドの根絶を含め、そのコンテンツが全ての人にとって等価値でなくてはならないのである。しかし、同資料にあるとおり、絵画などに比べて文章はそのアクセシビリティ(読めるかどうか)が保証されにくく、それを読んだ人が得られる知識に差が出来てしまう。それでは意味がない。そこで白羽の矢が立つのが自動翻訳であるが、これは文意などの問題により普及しないだろう。結果としてその文章はコンテンツの等価値を保証する<普遍語>で書かれていなくてはならなくなる。そして、その候補が英語である。資料3で述べられているように、<大図書館>計画が進めば進む程、それを利用したい人はますます英語で知を営むようになるだろう。日本語のような少数言語は学問の場では用いられなくなり、日常生活でしか使われなくなるだろう。(499語)




(2)(300字以内)


まず長所についてであるが、資料B-1で述べられているように、電子書籍は印刷書籍と異なり物理的スペースをとらない。また、そのコンテンツが電子データであるため、検索や更新、流通が容易である。また、データがオンラインで管理されていれば、どの本を持って行こうかという心配もなくなる。次に短所であるが、これは資料B-2・3で述べられているように、電子書籍はデータで構成されているため、複製などが簡単にできる。また、個人で制作・流通が可能であるためーこれはしばしCGMの議論で指摘されることだがーその内容の正確さ、起源、文脈的意味に関心が持たれず、それ自体の質が保証されないという点である。(283字)



(3)(700字以内)


私はSFCにおいて「コンテンツ」―特にUGC/CGMとWEB2.0的メディアの研究がしたいのであるが、今まで個人的に調べ物をする際に、大変不便な思いをした。まず第一に、私のように研究分野が極めて新しい分野の場合、参考に出来る資料がそもそも少ないのである。すでに完成され、体系化されてしまった(あくまでたとえだが)物理や化学のような学問についてであれば、大学の図書館に行けば困ることはないだろう。しかも、刻々と深化を続け、その時代における意味さえ常に変化させているインターネットメディアのような分野の場合、一般的な「テキスト」だけでは捉えきれないのである。映像、音楽、絵画…メディアの形態も様々だ。つまり、数が少ない上に多方面に散在している資料を集めるのが大変なのである。第二に、図書館は単に本がたくさんある場所ではなく、公共の場であると言うことである。上記で述べた私が必要としているデータを一同に集めれば、一つの図書館を埋めるかもしれない。しかし、それではニーズが少ない上に場所ばかり占め、図書館とは言えない。つまり、今までの印刷書籍の図書館も公共の場にしては十分にニーズを満たしてはいなかったのである。しかし、電子図書館はこれらの諸問題を解決してくれる。第一の問題は、全てのメディアをデータ化し、クラウドの中にたくわえることで、今この場にいながら最新の情報に触れることが出来るようになるし、第二の問題は言わずもがな、データは絶対量でニーズを満たす。以上から、私にとって電子図書館情報格差を是正し、新たな知の創出を促進する意味を持ち、私を含めた全ての人の間で等しく共有されるべきである。(683字)

慶應義塾大学SFC総合政策学部2010年度入学試験問題 小論文 合格者再現解答

問題については以下で確認して下さい。


http://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/honshi/10/k13.html


(1)図示

(1)説明(400字以内)


私が介護業界の高離職率の直接的原因であると考えたのは、図の3つである。低賃金は、資料2表3の満足度DIと表4から、最も深刻で直接的な原因であると言える。次に、「福利厚生等の処遇」であるが、これは表3の2・4・5・6など、数が多い上不満が多い。そして“精神論・介護は心”であるが、資料3・資料2表2を併せて考えれば、介護業界の業務内容と志願者の意識が乖離していることが分かり、これも極めて直接的原因と言える。次にそれら直接的原因を生み出している間接的原因に図の2つが挙げられる。能力開発不足は、資料3で述べられているように低賃金などに繋がり(専門性の低下)、コミュニケーション不足も、上司と仲が悪ければそのまま能力開発不足や精神論にも繋がる。そして、これらの根本的原因は業務管理の改善を行おうとしない“無能な管理職”であり、低賃金や処遇などの根本的原因は労働環境を改善しない行政の責任だ。(392字)



(2)(200字以内)


私は有効だと考える。何故なら資料2表4の回答率二十%以上の離職理由の四つである「運営」「人間関係」「収入」「処遇」について、資料4において実施率三十五%以上の施策の六つはそれぞれ「能力開発〜」「経営者〜」は「運営」に、「コミュニケーション〜」は「人間関係」に、「賃金〜」は「収入」に、「労働時間〜」「非正社員〜」は「処遇」に対応しており、極めて実状をつかんでいる施策であると言えるからである。(196文字)



(3)(200字以内)


私は有効でないと考える。何故なら、資料2表1から介護業界が極めて流動的であることが分かるが、資料2表3・4を考えると、その原因が賃金だけにあるとは言い切れず、資料1の冒頭から、七%の介護報酬引き上げがなされたとしてもその平均報酬はサービス業界を下回り、労働力不足解消の動因になるとは考えにくい。よって福利厚生や処遇(産休時の生活保障、職業病などへの特別保証金、業務実態の改善勧告)も重視すべきだ。(198字)


(誤字脱字など修正しました。)

AIR CONTENTSとは何処にあるのか〜UGCの商業化とそれに関する考察〜

前回の更新から約1ヶ月半。前の二つの記事を読み返しながら、自分の記事ながらずっと違和感を覚えていました。


AIR CONTENTSとは本当にこういうものなのか?』
UGC文化のバックグラウンドを読み切れているか?』


今回のテーマは「無料」と「意識」。
UGCのキーワードではあるが、大した議論が為されていなかった、この二つの関係性にUGCの現状を読み解くヒントが隠されていました。


では始めていきましょう!

  • なぜネットコンテンツは無料なのか


現在、ネット上では《全てのインターネットコンテンツは基本的に無料である》という前提が出来上がってしまっていて、「必ずしも無料である必要がないコンテンツ」の存在が見えにくくなっているのではないかと感じます。


僕は「ゼロ年代最後の日に」でAIR CONTENTSが “空気”のように消費される一因が、《消費者にとってコンテンツが自然に湧いて出てくるものとなりつつある》という消費形態の変化であるとも述べました。さらに、その消費形態の変化の原因が、《UGCをはじめとするネットコンテンツが軒並み無料である》というところに帰着させました。


このように《疑問→答え》のプロセスをメタ的に展開していくと、次のような根源的な疑問に行き着きました。


『なぜ、無料であるのか?』

  • UGCとはなにか


実際のところAIR CONTENTSとはどういったものを指すのかという根本的な定義は未だに曖昧なままです。それは、僕自身が今のネットコンテンツの置かれている状況を『コンテンツに携わる人たち皆に対して優しい仕組みになってない』という漠然とした感覚のもとに見つめてきてしまったからだと思います。事実、無料で公開され、消費されているコンテンツの中にもそれなりにうまくいっているコンテンツも存在します。ですから、AIR CONTENTSという概念の言い出しっぺである僕自身も具体的にどれが当てはまり、どれが当てはまらないのかという境界線を引きかねていたというのが本当のところです。


このブログを立ち上げてから、UGCに詳しそうな何人かの人にAIR CONTENTSという考え方——《“空気”のように消費されているユーザー主導のコンテンツ》を紹介したのですが、不思議なことに皆が皆全く違った見解を示してくれました。


ある人は、UGCの作り手のインセンティブはそもそも「作品が公開できること」にあると述べ、『それを通じたファンの人とのコミュニケーションに価値を見いだすことがコンテンツ制作である』と語ってくれました。そして彼らが最も嫌がるのは「作品外でのいざこざ」だそうです。つまり、作品に対するあらぬ批判や中傷、“信者”と呼ばれる一部熱狂的ファンの分別のない行動、またそれによって引き起こされるファン同士の対立や、制作者同士の関係の悪化などです。そういったいざこざに悩まされる彼らの心情は想像に難くありません。


『私はただ単にみんなに見せて楽しんでもらおうと思っただけなのに、どうして公開する前よりも面倒なことになるの?』


またある人は、『そもそもUGCは、その作り手がそのコンテンツが好きで好きでしょうがないから無料で公開されているのではなくて、ただ単に仲間内で好き勝手に作って好き勝手に消費されているだけ。だからマネタイズなんか出来るわけない』とも語ってくれました。


そしてまたある人は、『UGCが無料で消費されているのは確かに《ネットコンテンツにお金を払うという仕組みがない》からだが、だからといってそういった仕組みが出来たとして、皆がこぞってお金を投じるだろうか』と疑問を呈しました。『そういった理由も確かに一因ではあるが、本当に優れたコンテンツと、その価値の最大化を図る仕組みが欠落しているからこそUGCは今のような規模と質に留まっていて、“同人”の域を出ない』とも語ってくれました。


こういった話を聞いていくうち、僕は『なぜ同じ“無料の”コンテンツの話題なのに、人によってここまで捉え方が異なるのか』と疑問に思いました。そして、今までUCGという括りで語っていたネット上のフリーコンテンツは、「AIR CONTENTSとビジネスモデルの関係性について」で検証した以上に分岐しているのではないかと思い始めました。

  • フリーコンテンツの5分類


IT技術の発展により、コンテンツ開発のコストは限りなくゼロに近づき、インターネットの普及によりその流通コストもゼロになりました。そして、ネット黎明期の反体制・コミュニティ志向・利他的な空気のもとに、多くのコンテンツが無料で公開されてきました。確かにそれらの素晴らしいコンテンツが無料で公開されていることは非常に好ましい事態と言えます。そして、そういう性質をもった無料のコンテンツが(特に欧米圏を中心に)多く存在するということもまた事実です。しかし、今現在日本のUGCに於いて、全てのコンテンツがそういったイデオロギーの元に“無料”で公開されていると言い切れるでしょうか?


僕にはそうは思えません。僕たちは今まで本質的に性質が異なるコンテンツを“UGC”だとか“無料”というラベルを張って、大事な部分から目をそらしてきたのではないでしょうか。そして、その性質の差を無視してきたからこそ、UGCという括りの中でAIR CONTENTSと他のコンテンツを分かつ境界線が見えにくくなっていたのではないでしょうか。


そして、その違いを解き明かす鍵となるキークエスチョンが、


『なぜ、無料であるのか』


です。換言すれば、『コンテンツの制作者がどういった意図のもとにそのコンテンツを無料で公開しているか』ということであり、これは今現在のフリーコンテンツの議論に於いてあまり重要視されてこなかった(と個人的に感じている)テーマです。


ーー『だって、そもそもネット上にあるコンテンツが無料なのはアタリマエでしょ?』


そして、現在無料で公開されているコンテンツを、「無料である理由」をもとに5つに分類してみることにしました。これがどういう意味を持つのかということはもう少し後で説明します。


以下が、暫定的なネットの無料で利用されているコンテンツの5分類です。


1、「Google型」
2、「オープンソース型」
3、「ネタ型」
4、「アマチュア型」
5、「AIR CONTENTS型」


それでは、それぞれの簡単な解説をしていきたいと思います。


商品としての“無料”——「Google型」


Googleを始め、mixiGreeなどの企業が自社のサービスを無料で提供しているケース。自社のコンテンツを無料で提供することによって、本来デメリットでしかないはずの「無料」という性質をビジネス戦略として最大限に利用している。(後述)。


Changes for the better——「オープンソース型」


wikipedialinuxなど、ネット黎明期の反体制・コミュニティ志向・利他的な空気の元に大勢のユーザーが参加して、一つの大きなコンテンツが制作されるケース。


自分の作品が公開できるしあわせ——「アマチュア型」


個人が趣味で制作したコンテンツを無料で公開しているケース。このケースの場合、制作インセンティブは《自分の作品を多くの人に見て貰い、褒めて貰いたい》といったものであり、コンテンツ制作を通じてお金を稼ごうという意識がそもそも存在しない。


“お前ら”との作品の共有——「ネタ型」


主にコミュニティ内(仲間内)での“ウケ”を狙って制作され、「同じ志向性を持った仲間とコンテンツを共有すること」と「コミュニティ内での自分の立場の確立」に意味を見いだし、無料で公開されているケース。


No promise is in sight——「AIR CONTENTS型」


これについては定義そのものも後述します。


では順に解説していきます。


まず「Google型」。これは、いわゆる「広告モデル」です。自社サービスを無料で提供することでユーザーを集め、その“無料”を商品に広告代理を行うという、ネットコンテンツのビジネスモデルの二本柱のうちの一つです。ちなみにもう一つは「課金モデル」で、基本使用料は無料のかわり、アバターのようなオプションに別途料金がかかるというタイプです。ネット、もしくはモバイルコンテンツ事業者は、主にこの二つで収益を上げていて、この二つの両立が優位なビジネス展開の鍵と言われています。SNS大手三社(mixiGreeDeNA)の中で、DeNAが比較的に高収益であるのも、DeNAが広告収入と同規模の収入を課金モデルから得ているからです。(ネットコミュニティ白書2010より)


次に「オープンソース型」。Wikipediaなどに代表されるような、《明確な制作者が存在しない、大きな一つのコンテンツ》の事を指します。ユーザーが制作者で制作者がユーザーという構造のもと、それぞれが利他的にはたらく協同的なコンテンツです。編集者の数でコンテンツの質と規模をカバーするため、利用に関してお金をとるというモデルは逆に自らの首を絞めかねないため、基本的に採用されないようです。


さて、次に「アマチュア型」と「ネタ型」について。これら二つはかなり近い位置にあると言えますが、その正確な差異はこの議論であまり重要でないので軽く解説します。


まず「アマチュア型」のケースの場合、制作者は自分の作品に対して大きくコミットしているといえます。つまり制作することそのものに意味を見いだしているということです。対して「ネタ型」の場合、制作者にとって作品は同じ志向性を持ったコミュニティ内でのコミュニケーション媒体として機能しています。彼らはもちろん制作を楽しんでいない訳ではないのですが、それよりもむしろ『これを公開したらどんな感想を貰えるだろう?』というコンテンツを通じてのコミュニケーションにインセンティブがあるのではないかと僕は解釈しています。これはまったくの私見ではありますが、ニコニコ動画などにおけるいわゆる“元ネタ”へのレスポンスなどは、純粋なコンテンツ制作を営んでいるというより、1次的な媒体を皆で改変し、共有し、それらのコンテンツによって媒介されるコミュニケーションを楽しんでいるように思えます。つまり、このケースはMADや版権イラストなどに代表されるUGCのN次創作的特徴がとくに顕著に表れています。


上記の『UGCはそもそも仲間内で好き勝手やっているだけのことであってマネタイズなんてできるはずない』という意見について、おそらく彼にとってのUGCは「ネタ型」だったのでしょう。このタイプは基本的にマスに向けてではなくて始めからニッチに向けて制作されているので、一般的なコンテンツが好きな人にとっては敬遠されがちのようです。そして、上記で『UGCの制作者のインセンティブは作品の公開にある』と意見をくれた人は、おそらくこの「アマチュア型」の人なのだと思います。その意識が表れているのが『UGCの制作者が一番嫌うのは作品外の“いざこざ”』という言葉です。

  • 今そこにある境界線


本来コンテンツ制作において、作品外での“いざこざ”は不可避です。クリエイターは自らの感性と主張を作品にのせてマスに発信するわけですから、当然なんらかのレスポンスを求めてはいるわけです。どんな優れた作品であろうとレスポンスの中には批判と賞賛が入り乱れているように、“いざこざ”も含めて“コンテンツ制作”という作業なのですから、それらが完全に無くなることは決してありません。


そして、これに関してもう一つ。UGC文化の発展によって“プロ”と“アマチュア”の境界が曖昧になっているということはよく言われることですが、果たして本当にそうでしょうか?


僕は、UGC文化の発展は“プロ”と“アマチュア”の差の所在に変化をもたらしたのであって、その境界線を完全に消してしまったわけではないと考えています。今まで両者を分けていたのは、ときに“才能”などと呼ばれる技術的なレベルの差でした。しかし、ことコンテンツに関してはデジタル技術の革新によって個人でも高クオリティの作品が制作できるようになり、そういったテクノロジカル・ディバイドで「プロ」と「アマチュア」を分けきることは困難になりました。結果として、テクノロジカル・ディバイドによって覆い隠されていた本質的な両者の違いがあらわになった。


それが「制作者のプロ意識の有無」です。


「アマチュア型」の人たちが作品外の“いざこざ”を避けようとする理由ーーそれはひとえに彼らの中での「プロ意識」の欠如に起因します。プロのクリエイターは自分の作品に金銭的対価を求める以上中途半端な仕事はできませんし、消費者にお金を払って貰っている以上彼らの批判や意見、自分の作品が人々に与えた影響などの「作品外の出来事」も真摯に受け止めなくてはいけません。


しかし、UGCにおいて個々の制作者の技術力のばらつきを度外視しても、彼らの殆どが先ほど述べた《自分の作品を多くの人に見て貰い、褒めて貰いたい》といった理念のもと、アマチュアとして活動しているわけですから、彼らにとって“いざこざ”はまったく想定外のことなのです。自分の作品に自分の望んでいなかったレスポンスがあった時彼らはこう感じるでしょう。


『好きでやっていて、お金を要求しているわけでもないのに、何で批判されたり馬鹿にされたりしなくちゃいけないの?』


これが今現在「プロ」と「アマチュア」を決定的に分かつ境界線です。そしてこの問題ついて参考になるのがkude氏の文章です。

個人的には、UGC(ユーザー生成コンテンツ)やCGM消費者生成メディア)というものは、コンテンツビジネスの延長線上ではなく、サークル活動の延長線上で捉えたほうがしっくりくるような気がする。


かつては半径何メートルかの同好の士によって行われていたそれらの活動が、インターネットによって、『メディア』と呼ばれるまでの大規模なものになった、と。


UGCCGMをサークル活動(の成果物)として捉えれば、それをビジネスに乗っけるのがいかに難しいことか分かる。
サークル活動を事業化しようとしても、「自分はサークル活動という気楽さが好きなんだ」と反対するメンバーが必ず現れ、挫折するに違いない。


文化祭の模擬店のように販売するところまでをサークル活動とすれば(同人誌活動なんかは、こうした感じが強いのかな)、多少はビジネスに乗っけられるだろうけど、これだって基本的には「儲けは二の次」の域を超えないだろう。


なので、コンテンツビジネスとしては、自由にサークル活動をさせておいて、そこから生まれる成果物の中からこれはというものをピックアップして商品として販売するという、つまりは現状のやり方以外に手はないように思う。


ということで、個人的には、UGCCGMにコンテンツビジネスの未来を期待するのはやめておいたほうがいいだろうと思っている。


「そこ」にクリエイターもコンテンツも存在せず、JASRACモデルも通用しないのは、「そこ」がビジネスの場じゃないからだろう。


どうにかして「そこ」を商業地として開拓したい気持ちはわかるけれど、「開拓したら土地が枯れた」なんてことになったりしてね。


そんなことよりも、「これからの時代、プロの作品をいかに売るか」というところを真正面から考えることでしか、コンテンツビジネスの未来は切り開けないだろうとぼくは思う。

ーーadapted from http://kude.exblog.jp/9983448


Kude氏は、『今現在騒がれているUGCという現象も、結局のところ“同人サークル活動”の延長戦でしかないわけだから、そこにビジネス市場を見いだすことは出来ない』と述べています。そして中盤以降、『「アマチュア型」のUGCを商業化しようとすれば、思わぬ事態を引き起こしかねない』と警鐘を鳴らしています。



個人的に「ネット発リアルへ」のコンテンツが中々生まれてこない原因の一つがここにあると思っています。「アマチュア型」の人たちの作品を見たメジャーレーベルのスカウトマンが『ウチで働いてみません?』と誘ったとしても、恐らく彼らは二つ返事をしないはずです。何故なら、彼らにはコンテンツ以外の実生活があり、それを天秤にかけてまでコンテンツと付き合っていこうという覚悟がないからです。彼らの中にコンテンツとは趣味として付き合っていきたいという「選択的アマチュア意識」がある以上、そこにビジネスを見いだすことは難しいでしょう。なんといっても、彼らは“素人”なのですから。


また、「アマチュア型」の商業化に関してニコニコ動画で活躍している「わかむらP」のインタビュー記事も参考になります。


わかむらP 

「歌ってみた」やVOCALOIDの人も、みんなニコニコでは収入ゼロでやってるじゃないですか。そういうところに、たとえば「CDにしませんか」「DVDにしませんか」という話がいったとき、たぶん相場を知らない人たちがいっぱいいるんですよ。で、そういう人たちがたくさん出てきたときに、業界自体のダンピングが起きる可能性があるな、と思っていて、それがぼくは最近すごく気になるんです。ニコニコ世代のクリエイターが羽ばたいたとき、それまでゴハンを食べられてきた人たちが食べられないようになってはいけないと思うんですよね。先駆の同業者に迷惑をかけるのは良くない。それは「値引き」とか「デフレ」ってこととは意味が違いますから。


プロは、自分の価格をこれ以上絶対に落としちゃいけないラインを持っているものなんですね。それはもちろん時間がかかっているから、その時間に対しての請求をしなきゃいけないというのと、会社の場合は、その会社を維持するためにもお金が必要だから。個人で動画制作をするなら、ソフトやPC、住んでるところの家賃なども含めた全部で回ってるわけじゃないですか。で、そのときに例えば5分の動画を1万円でいいですよ」と受ける人たちが出てきちゃったりすると、そこが成り立たなくなってくる。ニコニコで名前が売れるとそういう商業的な話もあったりするので、その時、そこだけはみなさんお気を付けになってください。


——業界が崩壊したあとじゃ遅い。


わかむらP 

そう。それに業界が崩壊しなくても、ニコニコ上がりの新人はその価格でいいんだ、という暫定レベルになったとしても、その人たちがいつちゃんとした給料をもらえるようになるの?という、結局は自分のクビを締めることになりますよね。だから音楽を本気でやりたいと思ってるんだったら、本当にちゃんとした金額を請求しないとダメなんです。最初は新人金額でもいいんだけど、いつまでもニコニコ価格とか、タダでいいや、とかやっていると、本当に痛い目を見ると思うし、どんなに売れてもバイトしながらじゃなきゃ音楽できなくなるとか、そういう悲惨なことになるので。


adapted from http://www.cyzo.com/2010/01/post_3593.html


わかむらP氏はプロのクリエイターながらニコニコ動画で活動しており、現在の「アマチュア型」UGCの商業化に関しての問題点を指摘しています。特に僕が注目したのは、彼らのコンテンツを商業化するにあたって、その「アマチュア意識」は最終的に“プロ”業界にダンピング(不当廉売、必要以上に安い値段で商品を売買すること)を引き起こすのではないか、という点です。これはかなり説得力があるなと思わず感動しました。僕は前の記事で、『消費者がUGCに流れていくプロセスで「消費態度の変化」が現れる』と書きましたが、まさにこの問題と直結していると感じます。


消費者がUCGに流れていく理由は、ハイクオリティの作品が無料で公開されていて、その制作者との距離が密接だからなのでしょう。そして、それは先ほども述べたように、テクノロジカル・ディバイドが消え、質の高いコンテンツが「アマチュア意識」ーー《自分の作品を公開したい》のもと公開されているからです。しかし、よくよく考えてみれば、そのようなハイクオリティな作品が無料で公開され続けていることは奇妙なことです。


しかし、僕はこの状況は肯定的なスタンスで捉えています。これは一見「ゼロ年代最後の日に」で述べた「無責任な消費態度」についての議論と矛盾しますが、「アマチュア型」において制作者と消費者の間に単純な《見て貰いたい》→《見たい》という関係がなりたっている以上、“空気”ように消費されているとは言い切れません。僕は以前、UGCの制作者はみな「アマチュア型」や「ネタ型」ではないと考えていました。しかし、制作者と消費者の関係性も多様であることが見えてきた今、事情が異なる彼らの領域を侵すことはかえって好ましくないと思い直しました。お許し願います。


ですが、わかむらPが指摘するように「アマチュア型」「ネタ型」のような消費形態が恒常的になってしまうと、消費者の間に『このクオリティの作品が無料で公開されているのだから、これと同じくらいの作品にはお金を払う必要はないんだな』という消費感覚(もしくは金銭感覚)が根付いてしまう恐れがあります。それがわかむらPの指摘している「暫定レベル」なのだと思います。このタイプにおける消費感覚(もしくは提供感覚)が一般的になってしまうと、「コンテンツにお金を払う(請求する)」というビジネスモデル自体が崩壊する危険性があります。これは消費者にとってみれば好ましい事態なのかもしれません。しかし、UGCを越えたコンテンツ産業を考えたとき、お金が回らないビジネス市場に果たして未来はあるのでしょうか?もちろんクリエイターや関係職についている方々の生活の問題もそうですが、何より僕たちが本当に「おもしろい!」と言えるコンテンツ、つまりコンテンツの質は保証されうるのでしょうか。事実、お金をかければ良い作品が出来るとは限りませんが、お金(もしくは労働力)がかかっていない作品がキラーコンテンツになることはまずありえません。ここでは、金銭的対価がコンテンツの質とマス消費に少なからず 影響を持っているということを強調しておきます。


そして、最後の「AIR CONTENTS型」の解説に移ります。今現在、いわゆる“UGC”であると言われるのは恐らく上記の「ネタ型」「アマチュア型」の二つでしょう。そのような背景も相まって、UGCの商業化に関しては否定的な意見が為されています。僕も「ネタ型」「アマチュア型」のUGCを商業化する事は困難だと思っています。業界側の事情で“無理”という事ではなくて、彼らの中に「プロ意識」がなく、今のような流儀に居心地の良さを見いだしている以上、(僕もそうです)わざわざ商業化する必要性がないということです。それでも商業化を狙うメジャーレーベルは話題性と一時的な利益のために、彼らを搾取源として囲い込もうとしています。初音ミクの合同アルバムが出版されるとき、楽曲の著作権および著作隣接権はどうなっているのでしょうか?非常に気になります。


このようなネガティブな議論を続けてきましたが、果たして、WEB2.0で花開いたUGC/GCM文化は現時点で行き詰まり、サークル活動の延長で止まってしまうのでしょうか。


僕はそうは考えません。なぜなら、「アマチュア型」と「ネタ型」に埋め尽くされつつあるUGCの中にも、そう分類すべきでないコンテンツが確実に存在していると思っているからです。今まで、「ネット発リアルへ」のビジネスモデルは、《「アマチュア型」でデビュー》→《メジャーレコードが青田刈り》のただ一つでした。最近では「アマチュア型」の制作者、もしくはコミュニティサイトが主催するイベントなどもあるようですが、“ビジネス”か、と言われるとやはりそうではなくて、本当に乱暴な言い方だと思うのですが、“大規模なサークル活動”なのだと思います。技術的な問題より、意識的なところとして。何より彼らはそういった付き合い方をこれ以上なく楽しんでいるのですから。

  • AIR CONTENTS型とは


ネットの出現とWEB2.0が現実世界にもたらした一番の影響。それは梅田望夫氏がよく口にする「個のエンパワーメント(強化)」です。今まで自分の技能や主張を披露する場所に恵まれず、現実世界の大資本に従属せざるをえなかった個人が、ネットによって自分の可能性を高める機会を手に入れた。まさにここにあるのだと思います。


では、ニコニコ動画、pixiv、ピアプロなどに見られるUGCムーブメントには、その特徴は表れているでしょうか?


僕はあまりそう思えません。もちろん彼らを否定するわけではなくて、そういったWEB2.0的特性を最大限利用した上に発展してきたのか、と考えたときに、その発展を支えたのはユーザー間のコミュニティ意識と大多数のアマチュア意識であって、エンパワーされた個の力ではなかったのではないか、ということです。ネットというインフラを利用して、個人、もしくは少数で革命的なコンテンツ制作をしてきたクリエイターをUGC文化に見いだすにはあまりにも少なすぎます。そして、メジャーレーベルがことごとくUGCの商業化に失敗してきたのも、「アマチュア型」「ネタ型」UGCの表面的なクオリティばかりに注目し、制作者の意識的な部分を見落としていたからです。


しかし、これから必要になってくるのはネットを最大限利用して自分自身をエンパワーメントし、UGCキラーコンテンツたる作品を制作してくれるクリエイター、すなわちCreator of AIR CONTENTS(CoA)の人たちです。さんざん後回しにしてきましたが、ここでやっと「AC型」の定義をします。「AC型」とは、


《少なからず「プロ意識」を持ち、コンテンツを通じての自己実現を目標にコンテンツを制作し、インターネットで無料で公開している人たち》


の事を指します。先ほどの「アマチュア型」の議論でたとえ話としてスカウトの話を出しましたが、あの例で「アマチュア型」の人たちは乗り気にならないと述べましたが「AC型」の人たちは恐らく『しめた!』と思うはずです。もっと分かりやすいイメージを挙げるとすれば、「AC型」の人たちは「アルバイトで生計を立てながらオーディションを受けている劇団員」です。彼らCoAは、「趣味としてバンドをやっているサラリーマン」である「アマチュア型」の人たちとは明らかに異なっています。技術的なレベルではなくて、意識的なレベルで。

  • コンテンツ価値の最大化という考え方


では、何故そういったCoAは商業デビューしてこないのでしょうか?


もちろん、既に述べたようにUGCが「ネタ型」「アマチュア型」に埋め尽くされていて、意識的なレベルでの「AC型」の見分けがつきにくいという点も上げられます。これは「ゼロ年代最後の日に」で述べたとおり、「AC型」のUCGは「ネタ型」「アマチュア型」のUGCに混ざっているので、消費者の目には区別がつかず、その消費のされ方も変わりません。だからこそ才能あるCoAがどんどんネットを去ってしまいます。


しかし、もう一つ原因があるのではないでしょうか。それは、「コンテンツ価値の最大化が為されていない」という点です。そもそもコンテンツとはどのような時に一番いい働きをするのでしょうか。それは、より多くの人に向けて発信され、享受されているときです。ここでコンテンツとは「メディアを通して表現され、人に何らかの働きかけをする情報的な作品」と簡単に定義しておきます。UGCは基本的にユーザー投稿サイト、もしくは自作サイトのみで公開されています。しかし、リアルのコンテンツビジネスを見れば、コンテンツの収益構造の基本は2次利用。映画の例を挙げれば、劇場興行→雑誌特集→タイアップ商品の発売→各種パッケージ販売→サントラ発売→ムック本発売→TV放送→海外への権利売買…と、一つのコンテンツの価値を最大限に利用して成り立っています。この過程で多くのユーザーと収益を獲得していく訳です。映画などは、劇場公開だけでは製作費の回収など到底出来ません。しかし、今現在、ニコニコ動画で人気の作品の再生数をみても、多くて100万再生。1ユーザーが10回リピートするとすれば、ユニークユーザーは10万人。もっと少ないかもしれません。これはひとえにコンテンツ価値を最小限にとどめてしまっているからです。動画サイトで一時的に話題になったとしても、とてもリアルのコンテンツと肩を並べることは出来ません。


「ネット発リアルへ」がなかなか表れないもう一つの理由は、未だにWEBから「リアル」という広大な市場において、マスに通用するコンテンツが生まれてきていない点に集約されそうです。今のようにコンテンツ価値を最小限に抑えてしまうスキームでは、プロ(志向)意識のあるAIR CONTENTSですら“同人作品”としか見られないままですし、今現在UGCの殆どが二次創作で賄われているように、それらはマスに通用する一次コンテンツ(テレビアニメ、週刊誌でのマンガ等…)への従属を意味します。『私たちにはあなた方のような作品を作る力はありません』と。WEBを通じて本気でコンテンツを制作し、“プロ”としての活動を目標に掲げるのであれば、週刊誌に連載されてもおかしくないレベルのマンガ、平積みされていたら思わず買ってしまうレベルの小説、テレビで放送されていても遜色ないレベルの映像を“こちら側”からリアルへ発信していく必要があるのだと思います。プロの小説家を志す若者をして、『小説大賞に応募なんかするより、ネットで活動した方が断然いい』と言わしめんインフラが出来れば、今よりもっともっと面白い作品が出てくると僕は思っています。


また、出版社の未来とクリエイターのフリーランス化についての議論で、編集家の竹熊健太郎氏は次のようなことを述べています。


しかし、その場合「出版責任」は誰がとるのか、という問題が残ります。むろんそれは著者一人が背負えばよいと考える人もいるでしょうが、現実問題として、自分の書いた(描いた)ものに、本当の意味で最後まで責任を負える著者が、どれだけいるというのでしょうか。


「自分の発言や作品に責任を負う」ということは、生やさしいものではありません。ざっと考えても著作権問題や猥褻問題、名誉毀損、果ては「おまえの書いた●●という登場人物は俺だろう。おまえのパソコンで俺の脳波を毎日読み取って書いているんだろう」なんていう「電波」を受信する人の相手まで、場合によってはしなければならないということです。


日本は言論の自由憲法で保障されてはいますが、多くの場合それがタテマエに過ぎないことは、本を書いて出版したことのある人ならおわかりかと思います。たとえば普通に出版社が介在する本の場合、版元の編集者が、本の内容にうるさく口を出してきますが、これは、


(1) より売れる本にするため。
(2) 内容に出版社としての責任をとるため(出版責任を著者と分担する)。


という、主にふたつの理由で、そうしてくるわけです。特に重要なのが(2)でして、校正・校閲を含めた内容のクオリティ管理だけではなく、その内容に対するクレーム対応(著作権侵害、猥褻関係、名誉毀損その他)などのリスク管理も入ってきます。もちろん原理的には、著者がすべての責任を負う形で自由な内容の著作物を出版(公開)することは可能です。しかしその場合は「著者=編集者=出版社」ということになります。これの意味は、自分の著作を公開することによって生じるすべての責任(クレーム処理を含む)を「個人として」負わなければならない、ということであります。


adapted from http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-9fd2.html


出版社やレコード会社など、クリエイターを雇う側の存在(メディエイター)はしばし、中間搾取層として批判されたりもしますが、事実竹熊氏の指摘するように「編集責任」を持ってくれたり、自誌掲載や売り込み、仕事の斡旋などの「メディア」としての大きな力を保有していたり、新人クリエイターの発掘、育成を引き受けたりと、「コンテンツの価値の最大化」に関して彼らは誰よりもエキスパートだといえます。ですからACを本当に息の長いビジネスモデルにすることを考えたときに、《誰がどういった形でACをメディエイトしていくのか》という課題は残ります。ですから、僕は「AIR CONTENTSの価値の最大化を図るメディエイター」がこれから必要になってくると考えています。


それがどのようなカタチになるのか、まだ想像できません。ですが、その前に僕たちがやらなくてはいけないことは、CoAの人たちが既存のUGCムーブメントに飲み込まれて、正当な評価を受ける機会を逃していると言うことを認識することです。


そして、AIR CONTENTSを論じる際に、まず提示しなくてはいけないのに未だに提示できていない「具体例」を見つけること。『本当にそんな人達いるの?』と一蹴されてしまえば全く言い返せません。


そういうわけでAIR CONTENTS当面の目標はCoAの存在の確認ということになりそうです。その為にはUGCムーブメントを牽引するクリエイターの方々に色々お話を伺う必要があることは間違いないと思うのですが、果たしてこのような怪しいブログの取材に答えてくれる人達はいらっしゃるのか…。


まだまだ、AIR CONTENTSの体系化は先になりそうです。